3
2014 伊達誕
予感 3
「そなたは、些か気性が激しすぎまする」
ぴしゃっと言い置かれ、梵天丸は俯いていた顔を更に下げた。
隣では未だに「しゃしゅけ、しゃしゅけ、」と少年の名らしきものを嗚咽の合間に混ぜながら赤毛の少年に縋りつく弁丸がいて、目の前で自分に説教をする母の隣には気の毒そうな顔の竺丸がいる。更に言えば己の背後には申し訳無さで出来上がっているのではないかと言うような様相の小十郎が控えていた。
針の筵とは正にこの事だな、と梵天丸は上座から振りかかる小言に反省する振りで心内で舌を打った。
あんのクソチビめ! あんなに大声で泣き喚くんじゃねェよ! 自分のした容赦無い仕打ちを棚に上げて、梵天丸は隣でひっくひっくとしゃくり上げる弁丸に鋭い視線を向けた。
「聞いているのですか、梵天丸!」
こんなに小さな子にとか、もう少し情けの心をお持ちなさいだとか、一頻り高説を説き、それでも未だ言い足りぬのか、それとも梵天丸の内心を察したのか、厳しい声が母から上がる。
「明日はそなたの誕生日ぞ。それを祝いにきやったお方のご子息を、このように打ち据えるなど、……本当に、母は悲しゅうて仕方ない……」
「そなたは本当にこの母の心を分かってくれているのかえ? お竺はこんなにも心優しいというのに……のう、」
母の横に控える竺丸に母は愛しそうに目を遣り、そっとその頭を一つ撫でた。
気不味そうに、はあ、と相槌を打った竺丸が、目だけで「兄上申し訳ない」と伝えてきて、梵天丸は「構うな」とひっそりと笑ってやった。
母の気持ちはよく分かる。母の言い分も最もだ。しかし、こうして叱られるたびに竺丸を引き合いに出しては、梵天丸には当主の自覚も資格もないと言外に告げられているようで……。それが梵天丸には居た堪れない。
そうして、長々と母の説教を聞く素振りで、この後小十郎の小言かよと、梵天丸が眉を顰めていれば、母の侍女がそっと襖を開けて「殿のおなりでございます」と告げてきた。
まさかこの期に及んで今度は父からも説教かと、この世の終わりのような気分になった梵天丸だったが、談笑しながら近付く父ともう一人聞き覚えのない声に、不思議に思いながらも姿勢を正した。
「入るぞ」
短く告げてがらりと襖が開けられる。
「さ、入って下され」
機嫌の良さそうな声で父が促せば、何やらあの弁丸を万倍も知的に逞しく、大人にした様子の男が、「これはこれは、皆様お揃いで」とやや気恥ずかしげに足を踏み入れた。
めそめそとあの赤毛の少年にしがみついていた弁丸がその声を耳聡く拾って、「父上!」と破顔する。
泣き腫らして真っ赤な瞼に鼻の頭。鼻水の跡までそのままに、ぎゅっとその男に抱きつくと、これ、弁丸、と窘めるような声がかかる。
その様子を眺めた梵天丸の父が、ははは、と笑い「よく懐いておられる」と気にも留めない口振りで母の隣に腰を下ろした。
「は、我が子ながら未だ幼さの残りがございまして、お恥ずかしゅう……」
そうやって、弁丸の頭を撫でた男が、輝宗―梵天丸の父―殿のところは、ご立派なご子息で羨ましい、と常套句とも言える言葉を放てば、いやいやまだまだ二人とも幼くて、と父も照れたように返す。
それに気勢が削げたのか、母の小言も収まり、梵天丸にとっては計算外の助け舟になったと思い、ほっと小さく安堵の息を吐けば――。
「して、お前はまた泣いたのか」
笑い含みに誰がどう見ても泣き面の弁丸を抱えた弁丸の父―昌幸―が我が子の顔を覗き込めば、ずびーっと盛大に鼻を啜った弁丸が、ごしごしとその着物の袂で顔を拭い、「泣いてなどおりましぇん!」と空元気の大声を張り上げた。
きいんと、耳鳴りがしそうな程のその大声に、室の中にいる弁丸以外の全員が一瞬眉を顰めて耳を塞いだが、当の本人はけろっとしたもので、梵天丸殿と遊んでおりました、と気丈にもそう答えたのだ。
それを聞いて心底意外な気持ちで梵天丸が弁丸を見遣れば、な! と初対面の時に見せたあのにこやかな笑顔で振り返ってきて、とことこと梵天丸に近寄ると、「しょれがし、梵天丸殿と仲良く致しとうごじゃる」とあれだけ打ち据えられたにも関わらず再び梵天丸にぎゅうと抱きついてきた。
それに顔を青くさせたのは黙って控えていたあの赤毛の少年で、「ちょ、弁丸様!」と小声で窘めたが、輝宗は大層満足気に頷くと、「弟がもう一人だな」と朗らかに笑ったのだった。
これでは誰も弁丸の無礼を無礼とも言えず、あの母でさえ、梵天丸にこんなに懐いてくれるなんて、良いお子じゃのう、と昌幸を褒めそやし、多少慌てた昌幸にも安堵を齎せ、弁丸は当然無罪放免な上に、梵天丸に対しての放埓を許されたも同然であり、背後に控える心配症の傅役にも内心で「これで漸く梵天丸様にも友が増えた」と僅かに安心感を与え、青褪めたあの赤毛の少年には、何卒よろしくお願い致しますと平服され、竺丸にも兄上の弟ならば私にも弟ですなと微笑まれてしまえば、どう考えても分が悪いのは梵天丸で、梵天丸は忌々しげに己の首根っこにしがみつく弁丸に対して、じろりとその隻眼で睨めつける事ぐらいしか出来ないのであった。
助け舟かと思ったその時間は、梵天丸の思いも及ばない方向へと転がってしまい、首にしがみつく弁丸は無視して梵天丸は顔を上げた。
そして、それを見計らったように父輝宗が言を放つ。
「伊達の嫡男としての矜持は良い。矜持は高くあれ、伊達家の当主として鷹揚にせよと、確かに儂は教えた。だがな、梵天丸。お主と然程年も変わらぬ、いや寧ろ竺丸よりも年下の子どもを相手に身分の上下など無きも等しきこと。詮無いことよと儂は思うぞ。なあ? 梵天丸」
優しさの中に厳しさの光る双眸で見つめられ、梵天丸はぐっと詰まった。父の言う事は反論の余地もない程正しい。
自分だって分かってはいるのだ。こんな齢四つ程度の子どもに、上座も下座も無いのだと言う事ぐらいは。けれども、この子どもには何故か振り回されてしまい、それが悔しい。そして、この子どもが先刻の出来事同様に、こうして己に懐くことが、嫌ではないのも、もどかしい。歯痒い。この気持ちをどう表現していいのか、どう例えればいいのか。
梵天丸にはそれが分からない。あの何の衒いもない顔で笑いかけられて、裏も表もまるっきりないような風情で話しかけられ、接して来られては、困るのだ。面映ゆくて、――恥ずかしくて。
今も伝わるその温々とした体温も、ふわふわと未だ幼いままの体つきから生まれる柔らかさも。その全てが梵天丸にとっては未知のものだった。
あの手で、言葉で、笑顔で、梵天丸の全てを肯定してくるような、あの態度が。表情が。声音が。辿々しく幼い言葉で告げられる真実のみだと思わせる飾り気のない言葉に、梵天丸の頑なな性根が過剰に反応してしまうのだ。
だからこそ、それら全てを処理しきれずに、どうしていいのか分からずに、梵天丸は必要以上にこの子どもに厳しく辛く当たってしまった。
己の不甲斐なさと情けなさに梵天丸の頭が弱々しく垂れ下がる。
それを見て、昌幸が口を開いた。
「元々を正せば、某の愚息のせいゆえ。幼いからと言って分も弁えず伊達家の屋敷内を闊歩した挙句、ご嫡男の私室にまで踏み込み、なおも無礼な真似を致したのは、弁丸の方でござる。これも偏に某の教育の至らなさゆえ……。叱るならば弁丸とその親である某をどうぞ、打ち据えられて下され」
そう言って深々と輝宗に頭を下げた昌幸を、梵天丸の首に手を回したまま弁丸はじっと見つめていた。
「父上……、しょれがしのせいでお手打ちか……?」
じわじわと、漸く喜色の戻った大きな双眸に再び涙の膜を張り詰めて、弁丸が心許なげに言葉を発する。
それを見ていた梵天丸の母―お東―が袂で目元を拭いながら弁丸や、と殊更優しげに声をかけた。
はいと、涙を堪えて震える声で返事をした弁丸に、近う寄れと手招いたお東は、手打ちになぞなるものですかと、弁丸を慈しむようにして抱き締めた。
「悪いのはそなたの頬をこんなにした梵天丸じゃ」
痛々しげに腫れ上がった弁丸の頬を繊細そうな指先でそっと撫でたお東は、「昌幸殿も面を上げて下さいな」と声をかけた。
畏まって「は」と一言発して頭を上げた昌幸に、輝宗が笑いかける。
「喧嘩両成敗じゃ。未だ道理も分からぬ弁丸に、同じように道理の通じぬ我が子じゃ。儂の顔に免じて許してやってはくれぬか」
そう輝宗が告げれば、許すなどと滅相もない、と再び昌幸の頭が深々と下がる。
そして、安心したように弁丸がお東に尋ねる。
「お方様、父上はお手打ちにならぬのか?」
その幼い声にお東はにっこりと微笑んで頷く。
それを見た弁丸も、ぱっと晴れやかな顔で、頭を下げる昌幸の隣へ並び、同じように姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「ありがたき幸せでしゅ」
ぺこんと幼く頭を下げた弁丸に、輝宗とお東は「中々律儀で潔い」「男気がある」「将来が楽しみだ」と口を揃えた。
その様子を何も言えずにただ見ていただけの梵天丸も、何やら本当に胸が打ち震えるような気持ちになってしまって、この数年程は雨に濡れる以外に濡れた事などなかった左目がじわっと熱を帯びてくるような気がして、そそくさと俯いた。
あの幼い子どもの誠実そうな面構えに、出来たはずなのに、告げ口もせず、何事もなかったかのように、誰にも何も言わせない気付かせない素振りで、自分を、「梵天丸殿と遊んでいた」と庇うような真似を―本人は意識などしていないだろうけれど―してみせたあの子どもに。自分のした事を深く恥じ入るような気持ちになる。
そうして梵天丸が内省を深めていれば、さて、と輝宗の声が上がる。
「梵天丸、お主の方が弁丸よりも年上じゃ。分かるな? だからと言って何も全てを我慢しろと言うわけではない。だがな、」
そこで一呼吸置くと、未だ己の父に倣い頭を下げたままの弁丸を呼び、輝宗は己の膝に抱き上げた。
「見ろ、梵天丸。この弁丸の顔を。これは間違いなくお主がしでかした仕打ちじゃ。弁丸をここまで酷く打ち据える程の事をお主にしたのか? 儂にはとてもではないがそうは思えん」
「分かるな?」
父の言葉に梵天丸は重々承知だと深々と頷いた。
そしてぐっと腹に力を籠めると、頭を下げたままの昌幸に向かって梵天丸は向き直ると深々と頭を下げた。
「ご子息に、手荒な真似を致して申し訳ありません」
梵天丸の震える唇は、それでも、生涯初めてである謝辞を淀みなく伝えた。
そしてすかさずに、己の父に向き直ると、失礼すると一言かけて父の眼前にしゃがみ込んだ。
「弁丸、俺を、許せ」
簡素で素っ気ない、けれども梵天丸の矜持の高さや気性の烈しさからすれば、それでも精一杯の言葉を、赤く腫れ上がった弁丸の左頬を撫でて告げたのだった。
梵天丸に撫でられて、無性に嬉しくて、きゅっとその大きな双眸を狭めた弁丸は、ぴょんと抱えられていた輝宗の膝から降りると、某こそ申し訳ごじゃらんと、再び平身低頭として梵天丸に頭を下げた。
「ははは、これで仲直りだな」
その様子を見守っていた輝宗がその場の雰囲気をがらりと変える調子で笑い、昌幸殿ももうお手を上げて下されと、これでこの話は打ち切りとばかりに、あちらで酒でもなどと言いながら立ち上がった。
それにつられるようにして、お東も立ち上がり、もう一度弁丸の頭を撫でると、梵をよろしく頼みますぞと、一瞬梵天丸が耳を疑うような事を告げて、お竺や、と口癖のようになっている言葉で竺丸を呼び付けて東の母屋に去って行ったのだった。
「そなたは、些か気性が激しすぎまする」
ぴしゃっと言い置かれ、梵天丸は俯いていた顔を更に下げた。
隣では未だに「しゃしゅけ、しゃしゅけ、」と少年の名らしきものを嗚咽の合間に混ぜながら赤毛の少年に縋りつく弁丸がいて、目の前で自分に説教をする母の隣には気の毒そうな顔の竺丸がいる。更に言えば己の背後には申し訳無さで出来上がっているのではないかと言うような様相の小十郎が控えていた。
針の筵とは正にこの事だな、と梵天丸は上座から振りかかる小言に反省する振りで心内で舌を打った。
あんのクソチビめ! あんなに大声で泣き喚くんじゃねェよ! 自分のした容赦無い仕打ちを棚に上げて、梵天丸は隣でひっくひっくとしゃくり上げる弁丸に鋭い視線を向けた。
「聞いているのですか、梵天丸!」
こんなに小さな子にとか、もう少し情けの心をお持ちなさいだとか、一頻り高説を説き、それでも未だ言い足りぬのか、それとも梵天丸の内心を察したのか、厳しい声が母から上がる。
「明日はそなたの誕生日ぞ。それを祝いにきやったお方のご子息を、このように打ち据えるなど、……本当に、母は悲しゅうて仕方ない……」
「そなたは本当にこの母の心を分かってくれているのかえ? お竺はこんなにも心優しいというのに……のう、」
母の横に控える竺丸に母は愛しそうに目を遣り、そっとその頭を一つ撫でた。
気不味そうに、はあ、と相槌を打った竺丸が、目だけで「兄上申し訳ない」と伝えてきて、梵天丸は「構うな」とひっそりと笑ってやった。
母の気持ちはよく分かる。母の言い分も最もだ。しかし、こうして叱られるたびに竺丸を引き合いに出しては、梵天丸には当主の自覚も資格もないと言外に告げられているようで……。それが梵天丸には居た堪れない。
そうして、長々と母の説教を聞く素振りで、この後小十郎の小言かよと、梵天丸が眉を顰めていれば、母の侍女がそっと襖を開けて「殿のおなりでございます」と告げてきた。
まさかこの期に及んで今度は父からも説教かと、この世の終わりのような気分になった梵天丸だったが、談笑しながら近付く父ともう一人聞き覚えのない声に、不思議に思いながらも姿勢を正した。
「入るぞ」
短く告げてがらりと襖が開けられる。
「さ、入って下され」
機嫌の良さそうな声で父が促せば、何やらあの弁丸を万倍も知的に逞しく、大人にした様子の男が、「これはこれは、皆様お揃いで」とやや気恥ずかしげに足を踏み入れた。
めそめそとあの赤毛の少年にしがみついていた弁丸がその声を耳聡く拾って、「父上!」と破顔する。
泣き腫らして真っ赤な瞼に鼻の頭。鼻水の跡までそのままに、ぎゅっとその男に抱きつくと、これ、弁丸、と窘めるような声がかかる。
その様子を眺めた梵天丸の父が、ははは、と笑い「よく懐いておられる」と気にも留めない口振りで母の隣に腰を下ろした。
「は、我が子ながら未だ幼さの残りがございまして、お恥ずかしゅう……」
そうやって、弁丸の頭を撫でた男が、輝宗―梵天丸の父―殿のところは、ご立派なご子息で羨ましい、と常套句とも言える言葉を放てば、いやいやまだまだ二人とも幼くて、と父も照れたように返す。
それに気勢が削げたのか、母の小言も収まり、梵天丸にとっては計算外の助け舟になったと思い、ほっと小さく安堵の息を吐けば――。
「して、お前はまた泣いたのか」
笑い含みに誰がどう見ても泣き面の弁丸を抱えた弁丸の父―昌幸―が我が子の顔を覗き込めば、ずびーっと盛大に鼻を啜った弁丸が、ごしごしとその着物の袂で顔を拭い、「泣いてなどおりましぇん!」と空元気の大声を張り上げた。
きいんと、耳鳴りがしそうな程のその大声に、室の中にいる弁丸以外の全員が一瞬眉を顰めて耳を塞いだが、当の本人はけろっとしたもので、梵天丸殿と遊んでおりました、と気丈にもそう答えたのだ。
それを聞いて心底意外な気持ちで梵天丸が弁丸を見遣れば、な! と初対面の時に見せたあのにこやかな笑顔で振り返ってきて、とことこと梵天丸に近寄ると、「しょれがし、梵天丸殿と仲良く致しとうごじゃる」とあれだけ打ち据えられたにも関わらず再び梵天丸にぎゅうと抱きついてきた。
それに顔を青くさせたのは黙って控えていたあの赤毛の少年で、「ちょ、弁丸様!」と小声で窘めたが、輝宗は大層満足気に頷くと、「弟がもう一人だな」と朗らかに笑ったのだった。
これでは誰も弁丸の無礼を無礼とも言えず、あの母でさえ、梵天丸にこんなに懐いてくれるなんて、良いお子じゃのう、と昌幸を褒めそやし、多少慌てた昌幸にも安堵を齎せ、弁丸は当然無罪放免な上に、梵天丸に対しての放埓を許されたも同然であり、背後に控える心配症の傅役にも内心で「これで漸く梵天丸様にも友が増えた」と僅かに安心感を与え、青褪めたあの赤毛の少年には、何卒よろしくお願い致しますと平服され、竺丸にも兄上の弟ならば私にも弟ですなと微笑まれてしまえば、どう考えても分が悪いのは梵天丸で、梵天丸は忌々しげに己の首根っこにしがみつく弁丸に対して、じろりとその隻眼で睨めつける事ぐらいしか出来ないのであった。
助け舟かと思ったその時間は、梵天丸の思いも及ばない方向へと転がってしまい、首にしがみつく弁丸は無視して梵天丸は顔を上げた。
そして、それを見計らったように父輝宗が言を放つ。
「伊達の嫡男としての矜持は良い。矜持は高くあれ、伊達家の当主として鷹揚にせよと、確かに儂は教えた。だがな、梵天丸。お主と然程年も変わらぬ、いや寧ろ竺丸よりも年下の子どもを相手に身分の上下など無きも等しきこと。詮無いことよと儂は思うぞ。なあ? 梵天丸」
優しさの中に厳しさの光る双眸で見つめられ、梵天丸はぐっと詰まった。父の言う事は反論の余地もない程正しい。
自分だって分かってはいるのだ。こんな齢四つ程度の子どもに、上座も下座も無いのだと言う事ぐらいは。けれども、この子どもには何故か振り回されてしまい、それが悔しい。そして、この子どもが先刻の出来事同様に、こうして己に懐くことが、嫌ではないのも、もどかしい。歯痒い。この気持ちをどう表現していいのか、どう例えればいいのか。
梵天丸にはそれが分からない。あの何の衒いもない顔で笑いかけられて、裏も表もまるっきりないような風情で話しかけられ、接して来られては、困るのだ。面映ゆくて、――恥ずかしくて。
今も伝わるその温々とした体温も、ふわふわと未だ幼いままの体つきから生まれる柔らかさも。その全てが梵天丸にとっては未知のものだった。
あの手で、言葉で、笑顔で、梵天丸の全てを肯定してくるような、あの態度が。表情が。声音が。辿々しく幼い言葉で告げられる真実のみだと思わせる飾り気のない言葉に、梵天丸の頑なな性根が過剰に反応してしまうのだ。
だからこそ、それら全てを処理しきれずに、どうしていいのか分からずに、梵天丸は必要以上にこの子どもに厳しく辛く当たってしまった。
己の不甲斐なさと情けなさに梵天丸の頭が弱々しく垂れ下がる。
それを見て、昌幸が口を開いた。
「元々を正せば、某の愚息のせいゆえ。幼いからと言って分も弁えず伊達家の屋敷内を闊歩した挙句、ご嫡男の私室にまで踏み込み、なおも無礼な真似を致したのは、弁丸の方でござる。これも偏に某の教育の至らなさゆえ……。叱るならば弁丸とその親である某をどうぞ、打ち据えられて下され」
そう言って深々と輝宗に頭を下げた昌幸を、梵天丸の首に手を回したまま弁丸はじっと見つめていた。
「父上……、しょれがしのせいでお手打ちか……?」
じわじわと、漸く喜色の戻った大きな双眸に再び涙の膜を張り詰めて、弁丸が心許なげに言葉を発する。
それを見ていた梵天丸の母―お東―が袂で目元を拭いながら弁丸や、と殊更優しげに声をかけた。
はいと、涙を堪えて震える声で返事をした弁丸に、近う寄れと手招いたお東は、手打ちになぞなるものですかと、弁丸を慈しむようにして抱き締めた。
「悪いのはそなたの頬をこんなにした梵天丸じゃ」
痛々しげに腫れ上がった弁丸の頬を繊細そうな指先でそっと撫でたお東は、「昌幸殿も面を上げて下さいな」と声をかけた。
畏まって「は」と一言発して頭を上げた昌幸に、輝宗が笑いかける。
「喧嘩両成敗じゃ。未だ道理も分からぬ弁丸に、同じように道理の通じぬ我が子じゃ。儂の顔に免じて許してやってはくれぬか」
そう輝宗が告げれば、許すなどと滅相もない、と再び昌幸の頭が深々と下がる。
そして、安心したように弁丸がお東に尋ねる。
「お方様、父上はお手打ちにならぬのか?」
その幼い声にお東はにっこりと微笑んで頷く。
それを見た弁丸も、ぱっと晴れやかな顔で、頭を下げる昌幸の隣へ並び、同じように姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「ありがたき幸せでしゅ」
ぺこんと幼く頭を下げた弁丸に、輝宗とお東は「中々律儀で潔い」「男気がある」「将来が楽しみだ」と口を揃えた。
その様子を何も言えずにただ見ていただけの梵天丸も、何やら本当に胸が打ち震えるような気持ちになってしまって、この数年程は雨に濡れる以外に濡れた事などなかった左目がじわっと熱を帯びてくるような気がして、そそくさと俯いた。
あの幼い子どもの誠実そうな面構えに、出来たはずなのに、告げ口もせず、何事もなかったかのように、誰にも何も言わせない気付かせない素振りで、自分を、「梵天丸殿と遊んでいた」と庇うような真似を―本人は意識などしていないだろうけれど―してみせたあの子どもに。自分のした事を深く恥じ入るような気持ちになる。
そうして梵天丸が内省を深めていれば、さて、と輝宗の声が上がる。
「梵天丸、お主の方が弁丸よりも年上じゃ。分かるな? だからと言って何も全てを我慢しろと言うわけではない。だがな、」
そこで一呼吸置くと、未だ己の父に倣い頭を下げたままの弁丸を呼び、輝宗は己の膝に抱き上げた。
「見ろ、梵天丸。この弁丸の顔を。これは間違いなくお主がしでかした仕打ちじゃ。弁丸をここまで酷く打ち据える程の事をお主にしたのか? 儂にはとてもではないがそうは思えん」
「分かるな?」
父の言葉に梵天丸は重々承知だと深々と頷いた。
そしてぐっと腹に力を籠めると、頭を下げたままの昌幸に向かって梵天丸は向き直ると深々と頭を下げた。
「ご子息に、手荒な真似を致して申し訳ありません」
梵天丸の震える唇は、それでも、生涯初めてである謝辞を淀みなく伝えた。
そしてすかさずに、己の父に向き直ると、失礼すると一言かけて父の眼前にしゃがみ込んだ。
「弁丸、俺を、許せ」
簡素で素っ気ない、けれども梵天丸の矜持の高さや気性の烈しさからすれば、それでも精一杯の言葉を、赤く腫れ上がった弁丸の左頬を撫でて告げたのだった。
梵天丸に撫でられて、無性に嬉しくて、きゅっとその大きな双眸を狭めた弁丸は、ぴょんと抱えられていた輝宗の膝から降りると、某こそ申し訳ごじゃらんと、再び平身低頭として梵天丸に頭を下げた。
「ははは、これで仲直りだな」
その様子を見守っていた輝宗がその場の雰囲気をがらりと変える調子で笑い、昌幸殿ももうお手を上げて下されと、これでこの話は打ち切りとばかりに、あちらで酒でもなどと言いながら立ち上がった。
それにつられるようにして、お東も立ち上がり、もう一度弁丸の頭を撫でると、梵をよろしく頼みますぞと、一瞬梵天丸が耳を疑うような事を告げて、お竺や、と口癖のようになっている言葉で竺丸を呼び付けて東の母屋に去って行ったのだった。
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