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2014 伊達誕
予感 2



 決心にも似た幼い心を、その心には余りにも深く膨大な気鬱を誤魔化すように、一度二度と深く呼吸をして落ち着かせていた梵天丸の耳に、微かに幼い子どもの機嫌の良さそうな声が聞こえてくる。
「ふふ、お竺は今日も元気そうだなァ……」
 東の館とこの室とはさしたる距離はないので、よく竺丸と母の侍女たちがきゃあきゃあと騒ぐ声も聞こえるのが茶飯事だった。
 その声にふふと、もう一度笑った梵天丸は、竺丸を心底愛しいと思っていた。できることならばこんな風に偏屈な兄としてでなく、正々堂々とお前の兄はこの俺だと、あの幼子の前で振る舞いたいと思うぐらいには。
 次男とはいえ彼も立派な伊達の男なのだ。いつかは初陣に立つだろう。その時、一軍を率いて将となるのは間違いなく弟の竺丸なのだから。だからこそ、兄として威風堂々と彼に全てを教え、伝え、己が父や兄のように慕う小十郎から手解きを受けたように、竺丸に対して愛情を注いでやりたいと思うのだ。
 思うのだけれど。
 武家の娘として姫として育った母は、愛情深く梵天丸を見守ってくれていた。この忌々しい病を得るまでは。
 生死の境を彷徨った後、泣き腫らした母を見た時には、心からこの方の子で良かったと思ったのだけれど。
 けれども、己の命と引き換えにした右目が役に立たぬと判明してからは、彼女の愛情は全て竺丸へと向かい始めてしまったのだ。
 梵天丸はさもありなんと、幼心に思いこそすれ、容量のごくごく狭小なその器では、賢さ故に悟ったつもりのその気持ちも、溢れ出るまでには然程の時間もかからず。
 遠くなった母と子の心の距離は、こうして梵天丸の足を東の館に向かわせないと言う、物理的な距離としても如実に表れたのだった。
 その結果、梵天丸は己でも嫌気が差す程自分の性根が頑なである事も、竺丸に対して愛憎に近い感情を持ってしまう事も、全て全て、理解しつつもどうにも出来ない事へ苛立つうような、焦燥を感じるような、けれども一つしか違わぬ竺丸と己との差を見て気が沈むような。未だ幼い梵天丸には少々荷が勝ちすぎていた。
 そうして思い巡らせつつ、機嫌の良さそうな幼い声を聞くともなしに聞きながら、やけに騒々しいなと梵天丸はその賑やかしさを聞き咎めた。
 ひそっと細い眉を顰ませて、耳を欹てる。
 すると、まるで梵天丸が聞き耳を立てたのを感付いたかのように、今度は賑やかしさが静まる。何だ? と思い、瞑目して神経を集中させれば、普段通りの様子で、梵天丸は自分が神経過敏になっていたせいかと、余り考えずに片付けようとした。
 いつでも賑やかな東の渡りに気を取られるなんて、と梵天丸は僅かに己を叱咤して、さて今日はどいつもこいつも明日の準備に気忙しそうで、気晴らしに剣の稽古でもするかと立ち上がった所で相手になる者もいないだろうと、座したまま梵天丸は再び途方に暮れた。
 相変わらずその姿勢は一人物言わぬ壁に向かったままで。
 梵天丸は凡そ自覚はないようであるが、案外ぼんやりとしたところもあり、元の気性は苛烈とも思えるものだが、そこに病を得てからの引っ込み思案や頑なさだとかが取り付き、一人物思いに耽る事もあったりで、些か家臣や近しい者―特に小十郎など―は、「梵天丸様は賢いが少々間が抜けたところもある」と、口にはせずとも思われているのだ。それは彼の可愛らしさにも繋がるので、微笑ましいと思われてはいても、敢えて言う者もいないのだが。
 さて、そんな梵天丸が無自覚にも物思いに耽り、しょうがない余り気が進まないが本でも読むかと、気を取り直しそうなところに、すぱん! と大層威勢よく背後の障子が開かれた。
 何事かと思わず懐の小刀に手をやって振り向けば、見たことのない子どもが零れ落ちそうな目を更に見開いてぼけっと突っ立っていた。
 この屋敷で見かける自分以外の子どもと言えば、竺丸と同じく一つ下の従兄弟である時宗丸が遊びに来ている時ぐらいで、こんな子どもは見たこともないと、梵天丸は片目を見開いた。
 それからすぐに片目を眇めると、突っ立っている子どもの頭の天辺から足の爪先まで不躾に眺め遣り、ふんと鼻を鳴らした。
 見たところ時宗丸や竺丸よりも年下そうな子どもを、梵天丸はにべもなく見下したのだ。相手にする価値もないと。
 それでもその子どもは物怖じもせず、両手を開け放ったままの形で障子についたまま、にっこりと梵天丸に笑いかけた。
 普通ならばこの屋敷でこの姿を見て、凡そこんな風に何の衒いもなく笑いかける輩など、終ぞ見たこともないし、そもそもそんな風にしてくる者もいない。それが当たり前であり、次期当主に対する周りの扱いであった。
 まさかこの家で、己を知らぬ者など、と梵天丸はこの子どもの笑顔に受けた衝撃とその小さな胸に走った動揺を何とかひた隠し、「どこのガキか知らねェがここはテメェみたいなモンが来ていい場所じゃねェ」と手をかけたままだった短刀の柄を抜き、鞘に収めたままではあるが、その鋒をにこにこと笑う子どもに向けた。
 すると、子どもは、おお! と感嘆の声を上げ、「立派な短剣でしゅな!」と更に破顔した。「しゅな!」と発音されたそれに、梵天丸は柄にもなく吹き出してしまい、慌てて体裁を整える。
 きらきらと大きな瞳を輝かせてその子どもは恐れもせずに梵天丸が威嚇のために差し向けた短剣に近寄り、「しょれがしのは兄上のお下がりでごじゃる」と再び言葉の端々に幼さを滲ませて、ほら、とでも言うような気安い所作でぽんぽんと表現したらしっくり来るような腹から、なるほど、些か草臥れた感のある小刀を、うんしょと掛け声付きで引き抜き梵天丸に差し出した。
「きでんのは立派でごじゃるなあ」
 羨ましげに言いながら、その子どもはそろっと梵天丸の構える短刀の鞘に丸い指に笑窪のある手を乗せて、そっと撫でるようにした。
 幼さをふんだんに含ませたその言葉遣いと、ふくふくとした手に、梵天丸は父から譲り受けた大事な短剣だと言う事も忘れて、好きに触らせてしまっていた。いいなあ、いいなあ、と零す子どものその笑顔に囚われているなどと微塵も気付かずに。
 そもそもこんなにはしゃぎ立てる子どもが足音もなく近付く訳はなく、梵天丸は大袈裟に障子が開かれるまで物思いに耽り、気付かなかった自分にも呆れ返っていたのだけれど。
 それから、幼い声で羨望を一頻り述べた後、その子どもは短剣を握る梵天丸の手に、温かく柔らかい手を乗せてきた。
「きでんの手も、きれいでごじゃる」
 そっと腫れ物にでも触るように小さな指が梵天丸の手を撫でて、その感触に漸く梵天丸ははっとした。
 俺は何をぼーっとしていたんだと、俄に自分の頬が熱くなる思いで。
「テメェ! 気安く触ってんじゃねェ!」
 弟よりも小さな子どもに好き放題させていた自分への不甲斐なさと、何故か見惚れてしまった天真爛漫とでも言うような笑顔と、触れてきた一つの悪意もないその小さな手への、表現のしようがない気持ち。それから、それら全てをひっくるめて募った羞恥を誤魔化すように、振り払うように、梵天丸は殊更語気を荒らげた。
 そうしてどうやら相手は怒っているらしいと気付いた子どもは、それでもきょとんとして、ぽてっと小首を傾げた。
「む? 姫御がそのような言葉じゅかいは、感心致しませぬじょ」
 大きな瞳の上にちょこんと乗っかる、あと何年か育てば凛々しくなりそうな眉を寄せて、憤慨の表情を作った子どもに、梵天丸は隻眼が点になりそうになった。
 この子どもの言葉をそっくりそのまま理解するのなら、この子どもには自分は女に見えていると言うことだろうか。
 そう思うと、俄に火照った頬が更に血の気を増すのが分かった。
 ぶるぶると細い肩は震え、秀麗な眉が最上限まで引き攣る。
 確かに、自分は気性も見た目も母である義姫に似ているのかも知れない。こんなに綺麗な子どもは見たことがない、美しい子だと、それはそれは大変持て囃されたのも、記憶に新しい。ただ、それはあの忌々しい病を得るまでだったが。
 父ですらゆくゆくは見目麗しい若武者になるだろうなどと、凡そ武人には必要のない事で喜びを表していたのだから。
 だから、梵天丸にも僅かには自覚はあったのだ。
 己の見てくれは些か不甲斐ないのではないか、と。
 それを、不躾にも声もかけずに乱入して来た年下の子どもにまで言われ、梵天丸の矜持は酷く傷ついた。
「竺丸殿の兄上は姉上だったか」
 と、意味の分からない理屈にうんうんと一人で納得している目の前の子どもに、梵天丸の生来の勝ち気な気性が燃え上がる。
「テメェ! ふざけんな! 竺丸に姉なんざいねェ!」
 喚く梵天丸に再び目の前の子どもはきょとんと小首を傾げた。
「ならばきでんはお客人か?」
 明後日の方向の答えを返す子どもに、梵天丸は堪らずその襟元を引っ掴んだ。
「テメェ、よく聞けよ。俺は竺丸の兄だ。その足りない頭によく刻み込んでおけ!」
 ぺっと唾棄するようにして子どもの胸ぐらを突き放すと、梵天丸は握り締めていた短剣を己の懐に仕舞い込んだ。
 梵天丸に胸ぐらを捕まれ、ぎゃんぎゃんと吠え立てられた子どもは、驚きの表情をしていたが、泣くでもなく、手放された瞬間には、にぱっと再び笑顔になり、ならばきでんが梵天丸殿か! と、それはそれは大変嬉しそうに話しかけたのだった。
「さようかあ、でもなあ、梵天丸殿は美しいなあ、竺丸殿が仰っていたよりもうんともっとずっとかわいらしいな」
 何をどう聞いたのか、えへっと照れたような顔でそう零す目の前の子どもは、片手にあのお古の短剣を握り締め、もう片方の手で、成長とともに多少ふくよかさの取れてきた梵天丸の頬をふよふよと撫で擦る。
「ふわ~! つるつるでごじゃる」
 ぽやーっと頬を染めた子どもは、梵天丸の柔らかな頬をひと撫でふた撫でとして、きゅっとあの大きな瞳を細めた。
「竺丸殿は兄上は気難しいと仰っておられたが、ふふ、梵天丸殿は美しい方でごじゃったな!」
 一人で喋り、好きなだけ梵天丸の頬をなぞり、ひと通り納得したのか、ふにゃんと細まった瞳を再び大きくさせて、ちゅぎは、しょれがしの短剣も見てくだしゃれ! と今までの流れをすっかり忘れ去ったかのような態度で、両手で梵天丸にあの古びた短剣を差し出して、その子どもはにこにことしだした。
 怒鳴り散らした挙句、気にも止めていないと言う風体のこの子どもの調子にすっかり乗せられて、梵天丸は草臥れて片膝立ちだった姿勢をどっかりと胡座にした。
 心内では、竺丸と何を話したんだとか、大体この子どもはどこのどいつなんだとか、こんなチビに何で好き放題させてるんだとか、本当に色々と思うのだけれど、けれども、小さな柔らかい手で自分の頬を撫でられて、梵天丸は再び頬を朱に染めるのがやっとだった。
 言葉も儘ならないこんな子どもに、世辞にもならないような言葉を投げかけられて、それがまた日頃梵天丸には凡そかけられない類の、声の、表情の、それを通して伝わる心情の、裏表のなさに――。
 悔しいのに、何だか何とも言えない気持ちにもなって。
 それでも梵天丸は梵天丸だった。
「テメェいい加減名乗れ」
 居丈高にそう言って梵天丸は胸を反らせた。
 その言葉にはっとしたような表情になった子どもは、捧げ持っていた短剣を下ろして自分の脇に避けると、慣れない仕草で胡座をかき、梵天丸に平伏した。
「しょ、しょれが、しょれが? 某は信濃の国上田が領主、しゃな、真田ましゃゆきが次男、弁丸と申しましゅ」
 所々どころか、全体の八割ぐらい辿々しいが、そう名乗った子どもに、梵天丸はふーん、と鷹揚に頷いた。
 真田って言ったら武田の家臣じゃねェかと思うが、この子どもには未だ関係ないだろうと。
「弁丸」
 梵天丸が声をかければ、にぱっとあの爛漫な笑顔を上げて、なんでごじゃろうか? と幼く答えてくる。
「何でお前がここにいる」
 梵天丸がそう尋ねれば、にこにこしたまま、「はい! お館様の、みょ? みょう? みょーだい? で父上と参りました!」と、そのあやふやな内容とそぐわない程きっぱりはっきり元気丸出しで答えが来て、梵天丸は俄に笑いが込み上げてくる。
 そして思わずぶふふ、と吹き出した梵天丸に、弁丸は疑問符を大量に頭上に掲げてその顔を見上げたが、その次の瞬間には大量の疑問符は瞬く間に消え去ってしまった。
 ふおおお! と意味不明な唸り声を上げて、弁丸はかーっと自分の頬が赤くなるのを自覚した。
 今まで上田の持城と父や兄に無理矢理ひっついて行く武田の館ぐらいしか出歩いた事のない弁丸は、自分と同じ年頃の子どもとは無縁で―兄は別として―、幼い時から傍にいる佐助という忍も年が上で、たまに城下で町の子どもと触れ合っても、楽しいと思いこそすれ、こんな気持ちになった事はないのだ。
 城下や、近隣の野山の村落で出会う子どもたちを見ても、こんな風には思わない。犬や猫や小鳥や、赤子や自分よりも小さな子に思うのとは全く違っているけれど、言葉にしたら同じこの気持ちを。
「かわいい!」
 思わずそう叫んで、弁丸は梵天丸に抱きついた。
 それに驚き目を白黒させたのは梵天丸の方だった。どう考えてもこの場合弁丸は梵天丸と同じ位置には並べない身分だし、かなりの無礼者だ。
 しかも事もあろうか、可愛いだなどと、凡そ武家の嫡男には不釣り合いな暴言を曰い、あまつさえ抱きつくというこの暴挙。
 かっと梵天丸の頬と矜持に火がついた。
「無礼者!」
 容赦なくぴしゃりと弁丸の狼藉を窘め、振り落とす。振り落とされ、幼子特有の身の軽さと柔らかさでころころと転げた弁丸を追いかけ、梵天丸はつかつかと歩み寄ると、その右手を振り上げた。
 びし! と厳しい音が響く。その後、二度三度とびし、びし、と打ち据える音が響き、尻もちをついて意味が分からないと言った顔の弁丸の頬が赤く染まってゆく。そうして、もう何度目か分からぬその苛烈な音に、ひいいいぃぃぃっく! と盛大にしゃくり上げる音が混じった。
 ぎゃああん! とも、うわあん! とも言い難い声音が室の中に響き渡る。ぎゃー! と大声で泣き始めた弁丸に、漸く自分が幼子にするには手厳しすぎる仕打ちを施したのだと悟った梵天丸は、じんじんする手を収めたが、まさに火がついたように泣き喚く弁丸にほとほと困り果てて、打ち据えて弁丸の頬と同じくらいに赤くなった右手を左手に隠してどうしようと、顔が青褪めるのを感じる。
 俄に困った気持ちで梵天丸が右往左往していれば、ととと、と軽い足音がして何事ですかと、見たことのない赤毛の従者らしき者が現れた。
 開け放たれたままの障子越しに控えたその少年に、梵天丸は誰でも何でもいいからこの煩い子どもをどうにかしてくれと言う気持ちで、目を向けた。
 そうすると、泣き喚いていた弁丸が、ぴょこんと起き上がり、「しゃしゅけえええ!」と障子越しの廊下で控えた少年に抱きついて、更に大声で泣き喚く。
 そのうちに余りの大声に聞き咎めたのか、傅役の小十郎まで現れて、何だこれはと言うような顔で梵天丸を見遣る。
 更に東の廊下からは侍女たちの声が聞こえて、あらあらまあまあ、と母まで現れる始末で、梵天丸は苦虫を何十匹も噛み潰したような顔で俯いたのだった。



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