9
2014 伊達誕
予感 9
食事をする部屋で弁丸は未だめそめそしていた。
いい気持ちで寝ていたところを、鬼の形相の梵天丸に、文字通り叩き起こされたからだ。
しかも運の悪いことに寝起きだったせいもあり、余りの迫力に怖気づき、弁丸は粗相をした。
梵天丸の怒鳴り声を聞きつけた佐助によって、何とかその世話はしてもらったので、今は一先ずこざっぱりとはしているが、梵天丸の前で漏らしたと言う事が酷く弁丸を傷つけていた。しかも、それを目の前で見ていた梵天丸に鼻でせせら笑われて「何だやっぱり赤ん坊だな」と切って捨てられたのだ。
これでは夢は日の本一の兵でござると内外に豪語している己の矜持はずたぼろだ。
何が何でも梵天丸の前で面目を保ちたかった弁丸だが、邂逅して一日と経たずしてその面目は丸潰れになったのだった。
叩かれたのも怒鳴られたのも、然程弁丸にとって問題ではない。只々偏に梵天丸の前で醜態を晒した己が悔しいのだ。
――男としての沽券に関わるのだから。
何せ相手はなんて可愛らしい姫御と一目見た時からすっかり夢中になった相手なのだから。
残念ながら真相は姫御前などではなく、なんとも勇ましい立派な殿御だったのだけれど。
それでも今までには見たこともないような、花の顔に自分と違い素直に伸びるあのつやつやとした黒髪も、光の加減で不思議な色に見える縦長の瞳も。分かり合えればとんでもなく人情味豊かで情の深いところと、時折見せる笑んだ表情や、さっと朱に染まるあの柔らかい頬など。自分が強請れば文句を言いながらでも結局優しいところ。口数の少なそうで多い所も、あの乱暴な口調も。全部全部全部。本当に全部可愛い。だから、残念と思ったのもほんの極僅か一瞬で、今となってはもうとにかくどこをどう取って見ても、逆らえない程弁丸は梵天丸に夢中なのだから。
よくは分からないが元服したら父上に頼んで上田に嫁入りしてもらおうとか、それとも梵天丸の方が嫡男で自分は次男なのだから自分が伊達家に婿入りすればよいかとか、お花畑全開で明後日の方向に幸せな想像―妄想―を膨らませていたぐらいなのだから。
それなのに、それなのに、と。
ただでさえ二つも年が上の梵天丸にはあらゆる面で―当面は―勝てそうもないのに。
上田に戻ったら今まで以上に鍛錬して強くなり、何が何でも梵天丸を頂きたいと、握り締めた箸に向かって新たな誓いを立てる。
そんな弁丸の心梵天丸知らずで、「未だ気にしてんのか」とにべもない。俺ァ気にしてねェよと口振りは平坦だが、明らかに目が笑っている。揶揄いたくて仕方がないと言った態度だ。
それを見咎めた小十郎が「梵天丸様」と小さく窘めるが、いいじゃねェかと梵天丸の方も譲らない。
何故、どうしてこんなにも、この人は頑なに自分を論って笑おうとするのか、弁丸には理解できなかった。
梵天丸に施した余りにも心深く刻まれる出来事を、弁丸は己がしたなどとは夢にも思っていないのだから。
只々梵天丸の優しい声がして、目を開ければそこに面映そうなあの可愛い顔があって、嬉しくて。だから、沢山沢山伝えたいと思っていた言葉を紡いだ。
「梵天丸殿、好き」と。
そうして、思うままに抱き寄せて頬を寄せた時にふわりと香った梵天丸の匂いに誘われて、もっとと寄せたその先に、ふかふかと蒸かしたての饅頭のような感触があって、気持ちよくて美味しそうで、つい、思わず、ぱくりとしてしまった。
それは今までに食べたどんな大好物の甘味よりも甘やかで美味しくて――。そう。そう言うただ只管に幸せな夢を見ていただけなのだから。
そして気持ちよく微睡んでいるところへ超特大の雷が落ちてきたのだ。
それは仮令弁丸でなくとも、あの迫力あの声音あの形相で寝起きを襲撃されれば、誰だって、粗相の一つや二つ……致すでござろう、と弁丸の心の中の葛藤と自問自答は尻窄みになる。
ぐしぐしと涙で滲みそうになる視界を着替えた小袖で拭っては美味しい筈の夕餉の味がちっともしなくて、弁丸は再び潤む視界に箸を止めた。何時もならば美味しい美味しいとがつがつ食べる勢いなのに。
そんな様子を見かねて、さすがに佐助も己の幼い主が不憫になってくる。
「若様、あの、お願い。もう少し……弁丸様に容赦してあげて下さい」
俺様などと自分自身を呼ばう割に、やたらに腰低く佐助に頭を下げられて、梵天丸は白々とした気分でふんと鼻を鳴らした。
どいつもこいつも俺の気持ちなんて分かりゃしねェ癖に! と。
むかむかふつふつと、収まらぬ梵天丸の腹の内側はこうだ。
ふざけんな! 俺のあの気持はどうなるんだよ! あんだけ動揺してみっともなくて、こっ恥ずかしくて。この小便垂れのクソチビにあんな思いまでさせられて! 俺のPrideはどうすんだよ! と。
梵天丸は声に出さずに心内で地団駄を踏んでいた。
口汚く挙げ連ねているが、平坦に言えば「俺の純情を返せ」だ。
それでも、こうして共に食事をして、弁丸の様子を伺っているのだから。
当然憤懣やる方ない梵天丸はその勢いのままに食事をしたので、味わうどころか消化に悪いだろう早さで食べ終わっており、片や同じく味など分からずも、今度はいつ食事が終わるのかと言った風情で、どちらも丹精込めて調理した者には大変失礼な子どもたちであるのだが。
そうして、立場上で言えばいつだって自室に下がっても文句は言われないのを、こうして辛抱強く待ってやっているのだし、そもそもこうして弁丸だけを自分の客として特別に扱っている時点で察しろよ! と強く思うのだけど。
父も母もああいう性格なので、梵天丸が弁丸と食事をすると言えば、そうかそうかと二つ返事で、二人は本当に打ち解けあい仲良くなったのだ、よかったよかったと言った状態で、弁丸の父に至っては、仲良くして頂けてよかったなと、その頬を緩めたのだ。
だからこうして気兼ねなく膳を囲める室まで用意してやったと言うのに、このクソチビはいつまでもべそべそめそめそと! と、自他共に認められる程堪忍袋の緒の短さについて定評のある梵天丸は、ここへ来て次第にその緒が大分短くなってきていることに自覚を得た。
ぐるると山奥に潜む獰猛な獣のような唸り声を上げて、じろりと眼前の弁丸を見遣れば、未だ大きな目を零れ落ちそうにさせながら、ぐすぐすと鼻を啜っていて、「あれ? どうして俺こんな奴に愛しいなんて気持ちになっちゃったんだっけ」と、つい先程までは自分の心をこれでもかと占領していた甘酸っぱいような息苦しいような切ないような、未だ名前は分からない感情が、すとんと抜け落ちていくような感覚になる。
それでも、べそをかく弁丸を見れば、抜け落ち損なった感情が全力で稼働していて、地団駄を踏みまくった気持ちとは裏腹に、早く泣き止めよと思ってしまうのだ。
お前だって笑っている方が全然いいんだから、と。
あの笑顔がお前らしいんだ、いい顔なんだ。笑ってるお前が、“ ”なんだ、と。
思ってぶわっと梵天丸の顔が朱に染まる。
子どもたちの様子見以外にも、それぞれ仕事のある傅役は、先程から席を外しており、その変化に気が付く者はいないのが、梵天丸にとっての唯一の救いだった。
筈なのだけれど。
「あ、」
何を思ったか、目聡く梵天丸の変化に気付いた弁丸が、小さく声を上げた。
その口はその発声のままにぽかんと開けられていて、大層間抜けである。
冷めたと思っていた梵天丸の感情が急激にどっと盛り返してくる。抜け落ちたと思ったあの感情は、一寸も抜け落ちてなどいなくて、その間抜けな顔を見て笑いが込み上げてくればくる程、どんどん嵩増すようで。
そうだよ。仮令そんな風に間抜け面でも、泣いているよりずっといい。お前らしくて。
そんな風に思ってしまう自分にも殊更笑えてくる。
こうなっては最早問うに落ちずと言うべきか。
言葉になどせずとも、梵天丸は自分の気持ちを認めるしかなくて。それでも頑なな部分が顔を覗かせては「お前はそんなに軽い男なのか」と問い質す。けれども、人を好きになるのに時間は関係ないだろうと、もう一人の自分が自信満々に跳ね返すのを見て、梵天丸もそうだそうだと同意する。
阿呆らしいと思うけれど、これは紛れも無く“好き”と言う感情。
恐ろしいことにこの間抜けで馬鹿で大声で、ちょっと厳しくすれば泣き出す上に、案外図太くて、寝起きに粗相はするし、食い意地は張ってるし、しかも二つも年下で、……けれど底抜けに明るくて、さり気なく相手を傷つけぬように庇うような真似までする上に、天真爛漫をそのまま表したような笑顔は眩しくて。素直過ぎる程素直に紡がれる言葉は痛い程梵天丸の心の奥深くを溶かす。そんなこの子どものことが、好き、なのだ。
竺丸や時宗丸に感じるような親愛でもなく、小十郎に寄せる思慕でもない。
似ているようで全く違うその気持ちを、今は未だ名前は知らないけれど。けれど、はっきりと分かるのは、自分はこの子どもが好きだと言う事。竺丸や時宗丸と、弁丸がしたように、あんな風に寄り添って抱き締められたいかと言えばそうは思わないし、では抱き締めたいかと言われればそれも思わない。
親愛とも友愛ともとても良く似ているけれど、やはり別なのだ。この気持ちは、感情は。
べそべそと泣き腫らしながらも結局完食した弁丸に、やっぱりコイツ食い意地張ってるなと思いながらも、決して嫌ではないのだから。
寧ろ食べ物を粗末にしなくて偉いぞと褒めてすらやりたい。
じわっと滲む声で、それでも、ご馳走様ときちんと手を合わせたこの子どもの頭を撫でてやりたい。
けれどそんな感情はこのクソチビにしか湧かないのだ。だから、きっと、今までには知らなかった“好き”なんだろう。
ぽかんと「あ」の形に開いたままの弁丸の口元に、米粒を見つけて、梵天丸は間抜けに拍車がかかったと笑った。
それから、すいと乗り出して、弁丸の口元へ指を運ぶ。
「残すんじゃねェ。もっと大事に食え」
小言じみた言葉を一つ付け足して、ぱくんとそれを自分の口に納めれば。
はひ! と今まで聞いたことのない発音が弁丸の口から飛び出て、顔面から湯気でも出そうな程逆上せあがった弁丸に一頻り大笑いして。
「腹いっぱいになったか」と聞けば、壊れた絡繰りのようにこくんこくんと何度も縦に首を振るのが、~~~~クッソ! 凄ェ可愛くて。
むかつく程弁丸に可愛さを感じ、愛しさに胸を掻き毟りたいような気持ちで、梵天丸は。
「機嫌直ったか」とこんな心内など微塵も見せずにそれはそれはもう、淡々と告げたのだった。
その言葉に「はい」と今度はきちんと返事をした弁丸に、梵天丸は「よし」と一言で済ませて。
「残さなかったの偉いぞ」
と、先程思ったことを素直に実行した。
ぽふぽふと弁丸の癖毛を何度か軽く撫でてやれば、潤んで滲んだ大きな茶色い瞳がきゅっと狭まる。
そうして、そんな筈はないのだけれど、随分久しぶりに見るような形で、くっと弁丸の口角が上がり、あの夏の日差しのような笑顔を示した。
「すき」
何の脈絡もなく弁丸は意識もしていないと言う感じでそう言うと、ふわっと盛大に微笑んできて、再び梵天丸の心臓の鐘を激しく揺さぶり滅茶苦茶に打ち鳴らす。
このクソガキが、と思っても、このクソガキでなければ、梵天丸の心臓を、感情を、気持ちを、思考を、ここまで揺すれないのだ。
振り回されて揺さぶられて、酔ったようになった胸に閊えたものを、吐き出してしまった、そのたった一つが、「すき」なのだから、しょうがない。
ぽんぽんと先程とは打って変わって優しげな手つきで、ちっとも底意地の悪そうじゃない笑顔で自分の頭を撫でてくれる梵天丸の、その小さな花弁のような唇から零れた音を、弁丸はきっと多分この先もっともっと研ぎ澄まされて梵天丸を追い込むだろう生まれ持った野生の勘のようなもので拾い上げて、ぎゅうっと自分の小さな小さな胸が引き攣るのを感じた。
父上にも母上にも兄上にも、敬愛して止まないお館様にも、“好き”と言われるし自らも言うけれど。
けれども、今、梵天丸から齎された“すき”は全然違うと、弁丸は理解もできないけれど、思う。
そして、弁丸が伝えた事のある人全てに対して使う“すき”と、梵天丸に伝える“すき”は、全く違うと言う事も。
まるで理解は出来ないけれど、もっともっと己の本性とでも言うべき今は未だ小さいけれど、紅く燃え滾る炎が宿る場所。臓腑の奥の奥の、もっと奥深い場所で。考え無くても分かるような、そんな感じで。
弁丸は二人を隔てる膳が邪魔で、立ち上がって梵天丸のところへ行く。
そのまま笑顔のままで。
それから、あの夢で見た白くていい匂いでふわふわしたものは、ここにあったのかと思う気持ちで。
「すき」
「だいしゅき」
もっと言葉が上手になればいいのにと思うけれど、それでも今の弁丸の精一杯で伝える。
「梵天丸殿、だいしゅき」
ぎゅうと既に癖のようになってきた感のある抱きつきで、座る梵天丸に甘えれば、きゅっと同じくらいの力で抱き締め返されて、再びあの言葉。「すき」と転げた梵天丸の言葉に、弁丸は幸せに笑った。
「もう意地悪致さぬか?」
笑いながら弁丸が梵天丸を覗き込めば、「それは分からねェ」と一つ目が楽しそうに眇められて。
「では、某がもっと精進致せば大丈夫か」
弁丸がなおも問いかければ。
「お。お前言葉がしっかりしてきたじゃねェか」
良かったなと梵天丸にぽふぽふと撫でられれば、何だかもうお漏らしなんてどうでもいい事のように思えてくるから不思議だ。
「しゃっ、しゃようでごじゃるか!」
梵天丸に言葉がしっかりしたと褒められて嬉しくて、でも未だ本当はあやふやで、「まぐれかよ」と笑われても。
それでも嬉しいのだから不思議だ。
元来負けん気が強くて負けず嫌いの弁丸は、兄や、時折遊ぶ子どもたちに揶揄われたり小馬鹿にされれば、猛然と食って掛かる性質なのだから。
それなのに、この梵天丸だけに至っては、それさえ嬉しくなるのだから、しょうがない。
すきって、嬉しい気持ちでござるなと、梵天丸の見えている方の頬にすりっと擦り寄れば、至極簡単に「そうだな」と返されて。何の感慨も抑揚もない簡素な言葉。だけど、それがいい。それが、この、梵天丸らしくていいと思う。
なんて、そんな風に難しくは考えられないのが実情だけれど。
何はともあれ梵天丸が梵天丸でさえいれば、弁丸にとってそれが全てなのだから。
彼が彼であるだけで、弁丸はそれが嬉しい。そこが好き。
嬉しさの余りはしゃいだ弁丸の踵が梵天丸の膳に当ってがちゃんと音を鳴らす。
「おいおい。そりゃ拙いぜ」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、大人びた梵天丸がそこは気が付いて。
「戻るか」
今度は「俺は帰る」じゃなかったと、また、それだけで弁丸は嬉しくなる。
寝起きの粗相で悔しくて情けなくて着替えた後にここまで来る間だってずっと泣いていた自分に、でも、結局突き放しもしなければ置いて行きもしなくて、ずっと、こうして一緒にいてくれた梵天丸にどんどん“すき”が積もっていく。
一緒に同じ部屋に戻ることが嬉しくて。
弁丸はぴょんぴょんと跳ねて歩いた。
お前いい加減落ち着けと、梵天丸に何度か注意されたけれど、嬉しくて楽しくて、足が全然止まってくれない。
それが分かって欲しくて、弁丸は。
嬉しい楽しいと何度も繰り返したのだった――。
食事をする部屋で弁丸は未だめそめそしていた。
いい気持ちで寝ていたところを、鬼の形相の梵天丸に、文字通り叩き起こされたからだ。
しかも運の悪いことに寝起きだったせいもあり、余りの迫力に怖気づき、弁丸は粗相をした。
梵天丸の怒鳴り声を聞きつけた佐助によって、何とかその世話はしてもらったので、今は一先ずこざっぱりとはしているが、梵天丸の前で漏らしたと言う事が酷く弁丸を傷つけていた。しかも、それを目の前で見ていた梵天丸に鼻でせせら笑われて「何だやっぱり赤ん坊だな」と切って捨てられたのだ。
これでは夢は日の本一の兵でござると内外に豪語している己の矜持はずたぼろだ。
何が何でも梵天丸の前で面目を保ちたかった弁丸だが、邂逅して一日と経たずしてその面目は丸潰れになったのだった。
叩かれたのも怒鳴られたのも、然程弁丸にとって問題ではない。只々偏に梵天丸の前で醜態を晒した己が悔しいのだ。
――男としての沽券に関わるのだから。
何せ相手はなんて可愛らしい姫御と一目見た時からすっかり夢中になった相手なのだから。
残念ながら真相は姫御前などではなく、なんとも勇ましい立派な殿御だったのだけれど。
それでも今までには見たこともないような、花の顔に自分と違い素直に伸びるあのつやつやとした黒髪も、光の加減で不思議な色に見える縦長の瞳も。分かり合えればとんでもなく人情味豊かで情の深いところと、時折見せる笑んだ表情や、さっと朱に染まるあの柔らかい頬など。自分が強請れば文句を言いながらでも結局優しいところ。口数の少なそうで多い所も、あの乱暴な口調も。全部全部全部。本当に全部可愛い。だから、残念と思ったのもほんの極僅か一瞬で、今となってはもうとにかくどこをどう取って見ても、逆らえない程弁丸は梵天丸に夢中なのだから。
よくは分からないが元服したら父上に頼んで上田に嫁入りしてもらおうとか、それとも梵天丸の方が嫡男で自分は次男なのだから自分が伊達家に婿入りすればよいかとか、お花畑全開で明後日の方向に幸せな想像―妄想―を膨らませていたぐらいなのだから。
それなのに、それなのに、と。
ただでさえ二つも年が上の梵天丸にはあらゆる面で―当面は―勝てそうもないのに。
上田に戻ったら今まで以上に鍛錬して強くなり、何が何でも梵天丸を頂きたいと、握り締めた箸に向かって新たな誓いを立てる。
そんな弁丸の心梵天丸知らずで、「未だ気にしてんのか」とにべもない。俺ァ気にしてねェよと口振りは平坦だが、明らかに目が笑っている。揶揄いたくて仕方がないと言った態度だ。
それを見咎めた小十郎が「梵天丸様」と小さく窘めるが、いいじゃねェかと梵天丸の方も譲らない。
何故、どうしてこんなにも、この人は頑なに自分を論って笑おうとするのか、弁丸には理解できなかった。
梵天丸に施した余りにも心深く刻まれる出来事を、弁丸は己がしたなどとは夢にも思っていないのだから。
只々梵天丸の優しい声がして、目を開ければそこに面映そうなあの可愛い顔があって、嬉しくて。だから、沢山沢山伝えたいと思っていた言葉を紡いだ。
「梵天丸殿、好き」と。
そうして、思うままに抱き寄せて頬を寄せた時にふわりと香った梵天丸の匂いに誘われて、もっとと寄せたその先に、ふかふかと蒸かしたての饅頭のような感触があって、気持ちよくて美味しそうで、つい、思わず、ぱくりとしてしまった。
それは今までに食べたどんな大好物の甘味よりも甘やかで美味しくて――。そう。そう言うただ只管に幸せな夢を見ていただけなのだから。
そして気持ちよく微睡んでいるところへ超特大の雷が落ちてきたのだ。
それは仮令弁丸でなくとも、あの迫力あの声音あの形相で寝起きを襲撃されれば、誰だって、粗相の一つや二つ……致すでござろう、と弁丸の心の中の葛藤と自問自答は尻窄みになる。
ぐしぐしと涙で滲みそうになる視界を着替えた小袖で拭っては美味しい筈の夕餉の味がちっともしなくて、弁丸は再び潤む視界に箸を止めた。何時もならば美味しい美味しいとがつがつ食べる勢いなのに。
そんな様子を見かねて、さすがに佐助も己の幼い主が不憫になってくる。
「若様、あの、お願い。もう少し……弁丸様に容赦してあげて下さい」
俺様などと自分自身を呼ばう割に、やたらに腰低く佐助に頭を下げられて、梵天丸は白々とした気分でふんと鼻を鳴らした。
どいつもこいつも俺の気持ちなんて分かりゃしねェ癖に! と。
むかむかふつふつと、収まらぬ梵天丸の腹の内側はこうだ。
ふざけんな! 俺のあの気持はどうなるんだよ! あんだけ動揺してみっともなくて、こっ恥ずかしくて。この小便垂れのクソチビにあんな思いまでさせられて! 俺のPrideはどうすんだよ! と。
梵天丸は声に出さずに心内で地団駄を踏んでいた。
口汚く挙げ連ねているが、平坦に言えば「俺の純情を返せ」だ。
それでも、こうして共に食事をして、弁丸の様子を伺っているのだから。
当然憤懣やる方ない梵天丸はその勢いのままに食事をしたので、味わうどころか消化に悪いだろう早さで食べ終わっており、片や同じく味など分からずも、今度はいつ食事が終わるのかと言った風情で、どちらも丹精込めて調理した者には大変失礼な子どもたちであるのだが。
そうして、立場上で言えばいつだって自室に下がっても文句は言われないのを、こうして辛抱強く待ってやっているのだし、そもそもこうして弁丸だけを自分の客として特別に扱っている時点で察しろよ! と強く思うのだけど。
父も母もああいう性格なので、梵天丸が弁丸と食事をすると言えば、そうかそうかと二つ返事で、二人は本当に打ち解けあい仲良くなったのだ、よかったよかったと言った状態で、弁丸の父に至っては、仲良くして頂けてよかったなと、その頬を緩めたのだ。
だからこうして気兼ねなく膳を囲める室まで用意してやったと言うのに、このクソチビはいつまでもべそべそめそめそと! と、自他共に認められる程堪忍袋の緒の短さについて定評のある梵天丸は、ここへ来て次第にその緒が大分短くなってきていることに自覚を得た。
ぐるると山奥に潜む獰猛な獣のような唸り声を上げて、じろりと眼前の弁丸を見遣れば、未だ大きな目を零れ落ちそうにさせながら、ぐすぐすと鼻を啜っていて、「あれ? どうして俺こんな奴に愛しいなんて気持ちになっちゃったんだっけ」と、つい先程までは自分の心をこれでもかと占領していた甘酸っぱいような息苦しいような切ないような、未だ名前は分からない感情が、すとんと抜け落ちていくような感覚になる。
それでも、べそをかく弁丸を見れば、抜け落ち損なった感情が全力で稼働していて、地団駄を踏みまくった気持ちとは裏腹に、早く泣き止めよと思ってしまうのだ。
お前だって笑っている方が全然いいんだから、と。
あの笑顔がお前らしいんだ、いい顔なんだ。笑ってるお前が、“ ”なんだ、と。
思ってぶわっと梵天丸の顔が朱に染まる。
子どもたちの様子見以外にも、それぞれ仕事のある傅役は、先程から席を外しており、その変化に気が付く者はいないのが、梵天丸にとっての唯一の救いだった。
筈なのだけれど。
「あ、」
何を思ったか、目聡く梵天丸の変化に気付いた弁丸が、小さく声を上げた。
その口はその発声のままにぽかんと開けられていて、大層間抜けである。
冷めたと思っていた梵天丸の感情が急激にどっと盛り返してくる。抜け落ちたと思ったあの感情は、一寸も抜け落ちてなどいなくて、その間抜けな顔を見て笑いが込み上げてくればくる程、どんどん嵩増すようで。
そうだよ。仮令そんな風に間抜け面でも、泣いているよりずっといい。お前らしくて。
そんな風に思ってしまう自分にも殊更笑えてくる。
こうなっては最早問うに落ちずと言うべきか。
言葉になどせずとも、梵天丸は自分の気持ちを認めるしかなくて。それでも頑なな部分が顔を覗かせては「お前はそんなに軽い男なのか」と問い質す。けれども、人を好きになるのに時間は関係ないだろうと、もう一人の自分が自信満々に跳ね返すのを見て、梵天丸もそうだそうだと同意する。
阿呆らしいと思うけれど、これは紛れも無く“好き”と言う感情。
恐ろしいことにこの間抜けで馬鹿で大声で、ちょっと厳しくすれば泣き出す上に、案外図太くて、寝起きに粗相はするし、食い意地は張ってるし、しかも二つも年下で、……けれど底抜けに明るくて、さり気なく相手を傷つけぬように庇うような真似までする上に、天真爛漫をそのまま表したような笑顔は眩しくて。素直過ぎる程素直に紡がれる言葉は痛い程梵天丸の心の奥深くを溶かす。そんなこの子どものことが、好き、なのだ。
竺丸や時宗丸に感じるような親愛でもなく、小十郎に寄せる思慕でもない。
似ているようで全く違うその気持ちを、今は未だ名前は知らないけれど。けれど、はっきりと分かるのは、自分はこの子どもが好きだと言う事。竺丸や時宗丸と、弁丸がしたように、あんな風に寄り添って抱き締められたいかと言えばそうは思わないし、では抱き締めたいかと言われればそれも思わない。
親愛とも友愛ともとても良く似ているけれど、やはり別なのだ。この気持ちは、感情は。
べそべそと泣き腫らしながらも結局完食した弁丸に、やっぱりコイツ食い意地張ってるなと思いながらも、決して嫌ではないのだから。
寧ろ食べ物を粗末にしなくて偉いぞと褒めてすらやりたい。
じわっと滲む声で、それでも、ご馳走様ときちんと手を合わせたこの子どもの頭を撫でてやりたい。
けれどそんな感情はこのクソチビにしか湧かないのだ。だから、きっと、今までには知らなかった“好き”なんだろう。
ぽかんと「あ」の形に開いたままの弁丸の口元に、米粒を見つけて、梵天丸は間抜けに拍車がかかったと笑った。
それから、すいと乗り出して、弁丸の口元へ指を運ぶ。
「残すんじゃねェ。もっと大事に食え」
小言じみた言葉を一つ付け足して、ぱくんとそれを自分の口に納めれば。
はひ! と今まで聞いたことのない発音が弁丸の口から飛び出て、顔面から湯気でも出そうな程逆上せあがった弁丸に一頻り大笑いして。
「腹いっぱいになったか」と聞けば、壊れた絡繰りのようにこくんこくんと何度も縦に首を振るのが、~~~~クッソ! 凄ェ可愛くて。
むかつく程弁丸に可愛さを感じ、愛しさに胸を掻き毟りたいような気持ちで、梵天丸は。
「機嫌直ったか」とこんな心内など微塵も見せずにそれはそれはもう、淡々と告げたのだった。
その言葉に「はい」と今度はきちんと返事をした弁丸に、梵天丸は「よし」と一言で済ませて。
「残さなかったの偉いぞ」
と、先程思ったことを素直に実行した。
ぽふぽふと弁丸の癖毛を何度か軽く撫でてやれば、潤んで滲んだ大きな茶色い瞳がきゅっと狭まる。
そうして、そんな筈はないのだけれど、随分久しぶりに見るような形で、くっと弁丸の口角が上がり、あの夏の日差しのような笑顔を示した。
「すき」
何の脈絡もなく弁丸は意識もしていないと言う感じでそう言うと、ふわっと盛大に微笑んできて、再び梵天丸の心臓の鐘を激しく揺さぶり滅茶苦茶に打ち鳴らす。
このクソガキが、と思っても、このクソガキでなければ、梵天丸の心臓を、感情を、気持ちを、思考を、ここまで揺すれないのだ。
振り回されて揺さぶられて、酔ったようになった胸に閊えたものを、吐き出してしまった、そのたった一つが、「すき」なのだから、しょうがない。
ぽんぽんと先程とは打って変わって優しげな手つきで、ちっとも底意地の悪そうじゃない笑顔で自分の頭を撫でてくれる梵天丸の、その小さな花弁のような唇から零れた音を、弁丸はきっと多分この先もっともっと研ぎ澄まされて梵天丸を追い込むだろう生まれ持った野生の勘のようなもので拾い上げて、ぎゅうっと自分の小さな小さな胸が引き攣るのを感じた。
父上にも母上にも兄上にも、敬愛して止まないお館様にも、“好き”と言われるし自らも言うけれど。
けれども、今、梵天丸から齎された“すき”は全然違うと、弁丸は理解もできないけれど、思う。
そして、弁丸が伝えた事のある人全てに対して使う“すき”と、梵天丸に伝える“すき”は、全く違うと言う事も。
まるで理解は出来ないけれど、もっともっと己の本性とでも言うべき今は未だ小さいけれど、紅く燃え滾る炎が宿る場所。臓腑の奥の奥の、もっと奥深い場所で。考え無くても分かるような、そんな感じで。
弁丸は二人を隔てる膳が邪魔で、立ち上がって梵天丸のところへ行く。
そのまま笑顔のままで。
それから、あの夢で見た白くていい匂いでふわふわしたものは、ここにあったのかと思う気持ちで。
「すき」
「だいしゅき」
もっと言葉が上手になればいいのにと思うけれど、それでも今の弁丸の精一杯で伝える。
「梵天丸殿、だいしゅき」
ぎゅうと既に癖のようになってきた感のある抱きつきで、座る梵天丸に甘えれば、きゅっと同じくらいの力で抱き締め返されて、再びあの言葉。「すき」と転げた梵天丸の言葉に、弁丸は幸せに笑った。
「もう意地悪致さぬか?」
笑いながら弁丸が梵天丸を覗き込めば、「それは分からねェ」と一つ目が楽しそうに眇められて。
「では、某がもっと精進致せば大丈夫か」
弁丸がなおも問いかければ。
「お。お前言葉がしっかりしてきたじゃねェか」
良かったなと梵天丸にぽふぽふと撫でられれば、何だかもうお漏らしなんてどうでもいい事のように思えてくるから不思議だ。
「しゃっ、しゃようでごじゃるか!」
梵天丸に言葉がしっかりしたと褒められて嬉しくて、でも未だ本当はあやふやで、「まぐれかよ」と笑われても。
それでも嬉しいのだから不思議だ。
元来負けん気が強くて負けず嫌いの弁丸は、兄や、時折遊ぶ子どもたちに揶揄われたり小馬鹿にされれば、猛然と食って掛かる性質なのだから。
それなのに、この梵天丸だけに至っては、それさえ嬉しくなるのだから、しょうがない。
すきって、嬉しい気持ちでござるなと、梵天丸の見えている方の頬にすりっと擦り寄れば、至極簡単に「そうだな」と返されて。何の感慨も抑揚もない簡素な言葉。だけど、それがいい。それが、この、梵天丸らしくていいと思う。
なんて、そんな風に難しくは考えられないのが実情だけれど。
何はともあれ梵天丸が梵天丸でさえいれば、弁丸にとってそれが全てなのだから。
彼が彼であるだけで、弁丸はそれが嬉しい。そこが好き。
嬉しさの余りはしゃいだ弁丸の踵が梵天丸の膳に当ってがちゃんと音を鳴らす。
「おいおい。そりゃ拙いぜ」
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、大人びた梵天丸がそこは気が付いて。
「戻るか」
今度は「俺は帰る」じゃなかったと、また、それだけで弁丸は嬉しくなる。
寝起きの粗相で悔しくて情けなくて着替えた後にここまで来る間だってずっと泣いていた自分に、でも、結局突き放しもしなければ置いて行きもしなくて、ずっと、こうして一緒にいてくれた梵天丸にどんどん“すき”が積もっていく。
一緒に同じ部屋に戻ることが嬉しくて。
弁丸はぴょんぴょんと跳ねて歩いた。
お前いい加減落ち着けと、梵天丸に何度か注意されたけれど、嬉しくて楽しくて、足が全然止まってくれない。
それが分かって欲しくて、弁丸は。
嬉しい楽しいと何度も繰り返したのだった――。
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