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『野良猫に原チャリを占拠されちゃった』





 その青年は、部屋の中に上がり込むなり幸村にすり、と擦り寄って、額を幸村の首元に擦り付けてきたのだ。
 慌てたのは幸村で、これは、外国の挨拶なのか、と先ほど流暢に英語で返事をした青年を思い出して、あの、と声をかける。
 ひとしきり、すりすりと額を幸村に擦り付け、満足したらしい青年は、何事もなかったように離れると、何だ、とでも言いたげに幸村を見上げてくる。
 少し、この方の方が背が低いのか、と幸村は今、全く関係ない事を考えたが、見上げた顔を見てさらに驚いた。
 この人の顔は、と。
 彼は、彼の右目には、深々と、痛々しげな傷があったのだ。
 一つだけとは思えぬほど強く輝く目の色も、何やら薄青く光って見え、黒目の若干細長いことと言い。
 そう、まさに、あの、猫殿のようではないか、と思わずにいられなかった。
 しかし、先ずは、彼の身元確認が最優先事項で、内心の驚きを隠して、あの、その、と吃りながらも、幸村は青年にここに来た理由を尋ねた。
 お名前は?
 俺。
 お住まいは?
 ?(きょとんと首を傾げられた)
 お年は?
 知らない。
 どこから来たのですか?
 あっち。
 頭の痛くなるような問答を繰り返し、幸村ははぁ、と溜息を吐く。
 この方は、記憶喪失なのだろうか。漫画や小説の中だけの話かと思っていたが、実際にいるのか、とか、俺をからかっている性質の悪いいたずらなのだろうか、とか、ぐるぐると考えるが、全く解決策は見当たらない。
 ええと、ここは俺の部屋で、前に住んでいた方とは面識もなくて、貴方が訪ねてこられたのは、その方なのでは? と聞いてみるも、意味が分からない、と言うような顔をされて、さらに途方に暮れる。
 取り敢えず、と麦茶など出してみたが、グラスに顔を近付け、また、くんくん、と匂いを嗅ぐではないか。
 この人は、なんなのだ、と先程感じたものを再び胸に去来させ、目の前でその麦茶を飲んで見せれば、ああ、そうするんだ、と言うような顔で、同じように青年はやったのだ。
 うえ、とまずそうな顔をしてグラスを置いて、もういらない、とばかりに手で砂をかけるような真似をする。
 何と、不躾な、と思うものの、気に入らないのならしょうがない、異国の方かもしれないしな、と幸村は生来の楽観主義で都合よく片付ける。
 話すこともなく、しかしこれでは埒が明かないし、警察にでも届けるか、と幸村が考え始めた頃、青年がごろりと横になったのだ。
 まさか、見ず知らずの人間の家で、上がりこんで間もなくから、このような態度をする人がどこにいるのか、いやいない、と何度目になるか分からない反語を繰り返し、幸村は目を丸くした。
 そして、退屈そうにごろごろと転がる青年は徐ろに、なァ、と声をかけてきたのだ。
 なんでござろう、と多少不機嫌な声で答えれば、青年は、今日は、あの、パカンてするヤツ、くんねェの? と聞いてくる。
 は? パカンてするヤツ? と疑問に思うと同時に、俺はこの人と会うのは初めてで、何かをこの人に差し上げたこともござらん、とも思う。
 ええと、パカンてするヤツ、とはなんでござろうか、と聞き返せば、パカンてするヤツはパカンてするヤツだろ、と言い返される。
 まるで、分からぬ俺が馬鹿なのでは、と言いたげな顔をされた。
 意味が分からない。
 本当にそう思った。
 幸村は途方に暮れて、うーん、と唸るが、同時に腹もぎゅるぎゅると鳴り始め、そういえば、晩飯をどうするか、と考えていたところだったんだ、と思い当たり、しかし、この人の分まで食事の支度ができるだろうか、とも考える。
 あの、晩飯がまだなので、食べてもよかろうか、と聞けば、OK. と気安い返事がきて、地続きになっている狭い台所に入る。
 冷蔵庫を開ければ、やはりろくなものはなく、なんだか全部使いかけの野菜と、半分だけ残っていた豚肉があったので、もういいや、野菜炒めにして、白飯と食えばいいか、と思い、中身を取り出そうとすると、いつの間に側にいたのか、あの青年が、Oh! あるじゃねェか! と言って、猫殿の缶詰を手に取ったのだ。
 は? まさか? と思うが、確かに、猫缶は開けるときに、パカン、と音がするのだ。
 ひょいと手に取ると、その青年は幸村に向かってその缶詰を突き出し、ん、ん、と揺らす。
 その可愛らしい仕草と、彼の見た目の美しさと、手に持っているもののギャップを感じて、幸村は眩暈を覚える。

 これは、どこの国のお伽噺なのか、と――。

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