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『野良猫に原チャリを占拠されちゃった』





 猫殿?
 目の錯覚かと思ったが、まさに、幸村はそれを見たとき、猫殿、と思ったのだ。
 そうとしか言いようがなかったのだ。
 そこには、艶やかな黒い髪の毛に、黒いTシャツを着て、黒いズボンをはいた自分と同じ歳ぐらいの見目麗しい青年が立っていたのだ。
 この全身黒まみれの青年を見て、幸村は、猫殿、と口にしたのだ。
 こんなに真っ黒で美しいものを、幸村はあの野良猫しか、知らなかったのだ。
 しかし、それはよく見なくとも人の形をしており、寸分違わず自分と同じ人間であるし、あのぴんと尖った三角の耳もないし、ゆらりゆらりと優雅に揺れる細く長い尻尾も生えていない。
 どう見ても、普通の人で、唯一おかしいと思うところは、自分の知り合いではないことだった。
 俺は、このように見目麗しい青年の知り合いがいただろうか、と幸村はぼんやりと考えた。どれだけ考えても思い当たらず、きっとこの人は俺の前にここに住んでいた人の知り合いで、引っ越した事を知らずに訪ねてこられたのだろう、と考えた。
 あの、どちら様ですか、と一先ず聞いてみれば。
 不思議そうに幸村を見遣ったその青年は、俺。と一言言って、上がりこもうとする。
 え、俺? と当然幸村は不思議に思うものの、その青年はよく見れば足は素足で、泥まみれであり、そんな足ですでに玄関先に乗り上げてきているのだ。
 ちょ、っと、お待ち下され、と慌ててその青年を幸村は押し止め、今、足を拭くものをお持ちしますので、と言って、何ヶ月前に掃除したときに使ったか分からない雑巾を、床から拾い上げて水で絞り、その青年に渡した。
 受け取った青年はぽかん、と幸村を見上げて、くんくん、とその雑巾のにおいを嗅ぎ、おえ、と嫌な顔をする。
 ちょっと待て、と幸村は思うが、まさか、そんな、雑巾を渡されてにおいを嗅ぐ人間がいるだろうか? いや、いない。と高校時代国語の授業で習った事を頭に反芻しつつ、それで、足を、拭いて下さらんか、と告げた。
 All right. と、流暢に異国語で返事をした青年は、自分の足をがしがしと雑巾で拭く。だが、それは拭くというより、擦り付けているだけで、泥が落ちたりついたりして、綺麗になっているとは思えない。
 この人は、なんなのだ、と思うものの、見ていれば不器用な自分より不器用に足を拭き、自分としては納得したのか、雑巾を幸村に返してくる。
 いや、それではまだ、と言って、仕方なく幸村はしゃがみこみ、青年の足を手に取り拭いてやる。
 足が擽ったいのか、青年は、ふふふ、と笑って足を捩るが、ぐ、と力を込めて押さえ込む。
 俺は、何を、しているのだ、と思うものの、このどことなく間抜けで頼りなげな迷い人を放っておく事もできないのだ。
 あらかた拭き終わり、もう一度雑巾を絞って、今度こそ綺麗に泥を拭い、幸村は、どうぞ、と言って青年を自分の部屋に上がらせる。
 無用心かも、と思わなくもないが、この青年にはそのような怪しげな様子はなく、むしろ、頼りなげで、幸村の人助けをしたい、と思うような心を刺激するのだ。
 この人は、きっと、前の住人を訪ねてきた迷子なのだ、と思いながら不思議な尋ね人を自分の部屋に上げたのだ――。

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