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『野良猫に原チャリを占拠されちゃった』
十七
幸村が悶絶し、寧ろ自分こそが病人なのではと思う程やつれ、げっそりとした一夜が明けた。
それでも一日は始まるので、幸村は、先ずは顔でも洗うかと洗面所にいた。
そして、案の定政宗の熱は一晩で下がり、にゃうにゃうと何か言いながら起き上がってくる。
タオルケットを引き摺って洗面所までやってきた政宗は、morning. と声をかけると、つんつんと幸村のTシャツを引っ張った。
にゃァ、おい、これ、ここ。
政宗が幸村のTシャツを引っ張り指差すのは、自分のハーフパンツの後ろ。
いかが致したと幸村が問えば、ここ、ほら、ここ、と言いながら政宗は自分の後ろを指差す。
何もないように見える幸村は、はて、何もありませんが、と答える。
それを聞いた政宗は、きっと眦を吊り上げると、あるだろ、ここだよ! と言って、ハーフパンツを下ろしたのだ。下着諸共。
これにはさすがに幸村も面食らって、あわわ、と顔を赤らめる。
何度も、風呂に入れる時に見てはいるが、自分の中に恋心どころか、政宗に対してあらぬ劣情まで抱いていると気付いてしまってからは、正直目の毒で、何度も、お一人で風呂に入ってくれませぬかと打診したが、答えは決まってNo. で、致し方なく政宗を風呂に入れていたのだ。
まるで幸せな拷問のような時間を過ごし、政宗が寝入ってから、一人トイレで慰める。そんな日々を過ごしていた幸村に、政宗は事もなげに、自ら着ているものを脱いで見せたのだ。
この愛らしい人は、俺を殺す気か、と人生で初めて幸村が死を覚悟した瞬間だった――。
ぶ、と幸村の鼻から赤いものが滴り落ちる。
それを見た政宗は、え、にゃんだ、アンタ、どうした、と下半身丸出しで幸村の顔を覗き込む。
自分の鼻を押さえた幸村の手指の隙間からは、さらにダラダラと赤いものが溢れ、ばざぶでどの、あの、ずぼんをはいでぐだざらぬが、と不明瞭な懇願が漏れてくる。
にゃに言ってるのかわかんねぇよ、とブツブツ言いながら、政宗はお気に入りのタオルケットで幸村の顔を拭こうとする。
だいじょうぶか?
と、言いながら。
これに驚いた幸村は、鼻血を気合で止めると、手を洗い、彼のズボンを上げた。
あれだけ気に入っているタオルケットを。何があろうとも手離さず、自分が牛乳を零そうが、飯を食い散らかそうが、自分の口が汚れていようが足が汚れていようが、そのタオルケットで拭ったことなど、一度もない、あの政宗が。
泣きたいような気持ちになって、政宗のズボンを上げるためにしゃがんだ格好のまま、幸村は、汚れてしまいますぞ、と震える声で告げた。
彼は野良猫であり、一人で生きてきた。
人の姿になっていても、決して猫の本能は薄らがず、気紛れで、横柄で、愛らしく、傍若無人の乱暴ものなのだ。
気に入ったものは渡したくなく、全てに匂いをつけて歩きたがり、特にこのタオルケットなどは、絶対に、譲るはずはないのだ。
それなのに――。
今、彼は、己を心配して、気遣い、初めて見るだろう赤い血に、嫌悪を示すどころか、けろっとした顔をして拭おうとしたのだ。
あの、お気に入りのタオルケットで。
だいじょうぶか? と気遣う言葉を言いながら。
だいじょうぶか?
大丈夫か。
人が、人を気遣う時に、心配する時に使う些細な言葉。
しかし、彼が使うにはあまりに不似合いな。
それは、彼が人の暮らしに馴染んできた証ではないのか。
人を気遣うと言う事を、彼は事もなげにやってみせたのだ。
きっと本人は無意識なのだろう。
けれど。
けれど。
それは、彼が初めて見せた幸村に対する優しさであり、人として起こした態度なのだ。
こんなに胸が打ち震える事があるだろうか。
彼は猫の本能をしっかりと残しつつも、幸村との生活で、人としての思いやりだとか、気遣いだとかを、きちんと学んでいたのだ。習得していたのだ。
こんな、こんな、ぎりぎりのところで。
今、まさに、彼本来の姿である猫に戻ろうとしている、この瞬間に。
幸村が繰り返し繰り返し教え、培い、慈しんできたものが、今、花開いたのだ。
こんなに幸福で不幸な事があるだろうか。
ズボンを上げられた政宗は、ぶるぶると震える幸村を見下ろしていたが、ちょこんとしゃがみ込むと、なァ、おい、だいじょうぶなのか、と再び問いかけ、ねつでもあるのか、と聞いてくる。
きっと、自分が熱を出した時に聞いた症状に幸村が似ていたのだろう。熱を出して震えておりましてな、と説明したのは他でもない幸村なのだから。
いいえ、と零れ落ちそうになる雫を堪えた震える声で短く幸村は否定する。
熱など、ございませんぞ、と。
あなたにならば、常に上がりっぱなしでござるが、と自嘲しながら。
じゃあ、にゃんで、元気ないんだ、と言いながら、未だに幸村の鼻にこびりつく赤いものを、タオルケットで、ぐい、と政宗は拭いた。
汚れたタオルケットを構いもせずに、ぐいぐいと少し乱暴な力で拭いてくる。何度も何度も。
それでは痛うござる、と言って政宗を見れば、sorry. と言って、少し力が弱まる。
彼は、確実に、成長していたのだ。
粗方幸村の顔を拭って満足げにしたかと思うと、今度はタオルケットに顔を近付け、くんくん、と匂いを嗅ぐ。
これはもう、一生治らぬ習性なのだろう、と思って微笑ましく思うも、まさか自分の鼻血の匂いを嗅がれるとは思っていなかった幸村は、ぎょっとする。
しゃがんでいるのも面倒臭くなったのか、ぺたりと尻をついて座った政宗は、これ、アンタのにおいがする、と言って幸村の血のついた部分を見せてくる。
そして、言うのだ。
俺、アンタのにおい、すきなんだ、と。
幸村は、言葉を、失くした――。
十七
幸村が悶絶し、寧ろ自分こそが病人なのではと思う程やつれ、げっそりとした一夜が明けた。
それでも一日は始まるので、幸村は、先ずは顔でも洗うかと洗面所にいた。
そして、案の定政宗の熱は一晩で下がり、にゃうにゃうと何か言いながら起き上がってくる。
タオルケットを引き摺って洗面所までやってきた政宗は、morning. と声をかけると、つんつんと幸村のTシャツを引っ張った。
にゃァ、おい、これ、ここ。
政宗が幸村のTシャツを引っ張り指差すのは、自分のハーフパンツの後ろ。
いかが致したと幸村が問えば、ここ、ほら、ここ、と言いながら政宗は自分の後ろを指差す。
何もないように見える幸村は、はて、何もありませんが、と答える。
それを聞いた政宗は、きっと眦を吊り上げると、あるだろ、ここだよ! と言って、ハーフパンツを下ろしたのだ。下着諸共。
これにはさすがに幸村も面食らって、あわわ、と顔を赤らめる。
何度も、風呂に入れる時に見てはいるが、自分の中に恋心どころか、政宗に対してあらぬ劣情まで抱いていると気付いてしまってからは、正直目の毒で、何度も、お一人で風呂に入ってくれませぬかと打診したが、答えは決まってNo. で、致し方なく政宗を風呂に入れていたのだ。
まるで幸せな拷問のような時間を過ごし、政宗が寝入ってから、一人トイレで慰める。そんな日々を過ごしていた幸村に、政宗は事もなげに、自ら着ているものを脱いで見せたのだ。
この愛らしい人は、俺を殺す気か、と人生で初めて幸村が死を覚悟した瞬間だった――。
ぶ、と幸村の鼻から赤いものが滴り落ちる。
それを見た政宗は、え、にゃんだ、アンタ、どうした、と下半身丸出しで幸村の顔を覗き込む。
自分の鼻を押さえた幸村の手指の隙間からは、さらにダラダラと赤いものが溢れ、ばざぶでどの、あの、ずぼんをはいでぐだざらぬが、と不明瞭な懇願が漏れてくる。
にゃに言ってるのかわかんねぇよ、とブツブツ言いながら、政宗はお気に入りのタオルケットで幸村の顔を拭こうとする。
だいじょうぶか?
と、言いながら。
これに驚いた幸村は、鼻血を気合で止めると、手を洗い、彼のズボンを上げた。
あれだけ気に入っているタオルケットを。何があろうとも手離さず、自分が牛乳を零そうが、飯を食い散らかそうが、自分の口が汚れていようが足が汚れていようが、そのタオルケットで拭ったことなど、一度もない、あの政宗が。
泣きたいような気持ちになって、政宗のズボンを上げるためにしゃがんだ格好のまま、幸村は、汚れてしまいますぞ、と震える声で告げた。
彼は野良猫であり、一人で生きてきた。
人の姿になっていても、決して猫の本能は薄らがず、気紛れで、横柄で、愛らしく、傍若無人の乱暴ものなのだ。
気に入ったものは渡したくなく、全てに匂いをつけて歩きたがり、特にこのタオルケットなどは、絶対に、譲るはずはないのだ。
それなのに――。
今、彼は、己を心配して、気遣い、初めて見るだろう赤い血に、嫌悪を示すどころか、けろっとした顔をして拭おうとしたのだ。
あの、お気に入りのタオルケットで。
だいじょうぶか? と気遣う言葉を言いながら。
だいじょうぶか?
大丈夫か。
人が、人を気遣う時に、心配する時に使う些細な言葉。
しかし、彼が使うにはあまりに不似合いな。
それは、彼が人の暮らしに馴染んできた証ではないのか。
人を気遣うと言う事を、彼は事もなげにやってみせたのだ。
きっと本人は無意識なのだろう。
けれど。
けれど。
それは、彼が初めて見せた幸村に対する優しさであり、人として起こした態度なのだ。
こんなに胸が打ち震える事があるだろうか。
彼は猫の本能をしっかりと残しつつも、幸村との生活で、人としての思いやりだとか、気遣いだとかを、きちんと学んでいたのだ。習得していたのだ。
こんな、こんな、ぎりぎりのところで。
今、まさに、彼本来の姿である猫に戻ろうとしている、この瞬間に。
幸村が繰り返し繰り返し教え、培い、慈しんできたものが、今、花開いたのだ。
こんなに幸福で不幸な事があるだろうか。
ズボンを上げられた政宗は、ぶるぶると震える幸村を見下ろしていたが、ちょこんとしゃがみ込むと、なァ、おい、だいじょうぶなのか、と再び問いかけ、ねつでもあるのか、と聞いてくる。
きっと、自分が熱を出した時に聞いた症状に幸村が似ていたのだろう。熱を出して震えておりましてな、と説明したのは他でもない幸村なのだから。
いいえ、と零れ落ちそうになる雫を堪えた震える声で短く幸村は否定する。
熱など、ございませんぞ、と。
あなたにならば、常に上がりっぱなしでござるが、と自嘲しながら。
じゃあ、にゃんで、元気ないんだ、と言いながら、未だに幸村の鼻にこびりつく赤いものを、タオルケットで、ぐい、と政宗は拭いた。
汚れたタオルケットを構いもせずに、ぐいぐいと少し乱暴な力で拭いてくる。何度も何度も。
それでは痛うござる、と言って政宗を見れば、sorry. と言って、少し力が弱まる。
彼は、確実に、成長していたのだ。
粗方幸村の顔を拭って満足げにしたかと思うと、今度はタオルケットに顔を近付け、くんくん、と匂いを嗅ぐ。
これはもう、一生治らぬ習性なのだろう、と思って微笑ましく思うも、まさか自分の鼻血の匂いを嗅がれるとは思っていなかった幸村は、ぎょっとする。
しゃがんでいるのも面倒臭くなったのか、ぺたりと尻をついて座った政宗は、これ、アンタのにおいがする、と言って幸村の血のついた部分を見せてくる。
そして、言うのだ。
俺、アンタのにおい、すきなんだ、と。
幸村は、言葉を、失くした――。
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