ストリームレット・シングル-Ⅰ



「ここが僕んち」
 あー、だろうな。
 大した距離も歩かず辿り着いた一軒家を見て、オリバーは心の中で返した。
 エドガーという十分に幼さを湛えたこの男に拾われて気まぐれについてきてみれば、先ほどの会話の中に出てきた区画そのものだった。本当に本当のことを言っていたのかと、呆れる気持ちもなくはないが、正直な彼に好感も抱く。
「マジでストリームレット・シングルだったのか」
 僅かに笑いを含んで言えば、オリバーの顔がこちらを向く。
「そうだってさっき言ったじゃん」
 ぷくっと膨れた頬が何とも微笑ましいような気がするが、コレで二十五歳だとか言うのだから世の中って分からねえな、とも思う。
「まあ、そうだけど」
 宿主に機嫌を損ねられてもマズイと思い、適当に返せば、数段もない階段を上り、白いデッキの上からエドガーの声がする。入っていいよ、と。
「ッス」
 お邪魔しますときちんと言えなくて、何とも言えずに本気でオリバーが適当に挨拶すれば、もうそんなに畏まらなくていいよ、とエドガーの声がする。
 焦げ茶色の至って普通のドアを開ければ、中は木目調で統一された空間が広がっていて、穏やかな温かみを覚える。
 今までの自分の家とはまるで違うな、と。
 プラスチックでできたようなチープで簡素な自宅を思い出し、あの冷蔵庫よく壊れたよなあ、なんて笑いもこみ上げる。
 そんな自宅とは全く違うこの家は、入ってすぐ右手にソファがあって、その奥にキッチン。どうやらカウンターかと思った場所はダイニングテーブルがシンク越しにベタ付けされていて、そこにダイニングチェアが並んでいるようだった。
 そこまで広くもないこの家を彼なりに効率的に使おうとした結果なのだろう。家具の一切は木目調のウッディな感じで統一されていて、物は至って少なく、正直生活感そのものがないような気がした。
 まあ、よくあるタイプの家だよな、などと不躾なことを思いながらオリバーが突っ立っていれば、エドガーが嬉しそうに近づいてくる。
「えっと、まあ、見たとおりで、ココがリビングダイニングかな。その奥のドアが寝室で、こっちの左手のドアがバス。何となく全部茶色いけど、コレでも頑張ってリフォームしたんだよ」
 おう、と返事しながらオリバーがぐるっと言われたとおりに見れば、まあ、そんなもんかな、と思うような間取りだった。リビングダイニングと言った部屋には、ちょうど自分の斜め左前辺りに本棚があって、他に一切家具らしいものはない。ウッドデッキには何かあったような気がするが、今はそこまで見ていなかったので、オリバーは「何もねえな」と正直に口にしたのだった。
 でも、音楽は色々聞けるよ、と返したエドガーの視線を追えば、冷蔵庫だけは随分張り切ったようで、この街じゃかなり値段の張る部類の物が目に入り、自炊魂が刺激される。
 ウチのボロじゃロクなもんできなかったしな、胸裡で呟き、エドガーの見ている先に視線を移す。冷蔵庫から真っ直ぐに上がった場所にスピーカーが備え付けられていて、ああなるほど、と思う。
 あまり広くないこの家で、効率よく自分好みに暮らすための苦肉の策だったのだろうな、と。
「僕音楽好きだから、コレだけは外せなくて」
 照れたように笑うエドガーの視線が壁の上部から外されて再びオリバーに戻る。
 いちいち人の顔を見てくる、目を、見てくる奴だな、とオリバーは思うが、その大きな薄い緑の目が表情豊かに喜びを表現するので、ついつい自分も彼の目を見て話してしまう。
「まあ、いいんじゃねえの」
 ニコニコとしか表現しようのない顔でそう説明されて、普段なら取るに足らないと返事もしないようなその内容に、オリバーは全く気が利かねえな、と自責しながらも、ついつい返事してしまう。それでも、そんなつまらない返事を意に介した様子もなく、エドガーは「じゃあ、手当しちゃおっか」と、再び笑う。
 そう言われてオリバーはふんわりと柔らかな色で部屋を照らす照明のせいで、この穏やかな空間に自分が不釣り合いなのが余計に目立つようで、居た堪れない気持ちになる。
「あー、何か、……悪ィ」
 何が? リビングだと言うソファの前に据えてあるローテーブルの下から薬箱らしきものを出してきたエドガーにそう返されて、オリバーは言葉に詰まる。普段の生活で人に対してきちんと礼を述べることも感謝を表すこともしてこなかった自分にとって、今のこの待遇は照れ臭いような、困るような、嬉しいような、ありがたいような。それが全部混ざって結局自分がただのガキだと思い知らされるようで、最終的にはやはり困ってしまうのだ。
「いや、何か面倒なことさせちまって」
 どうにもその葛藤が言葉にできずに、自分の中で消化できずに、再びオリバーは曖昧に返す。
「別に。僕が君に声かけたんだし」
 面倒でも悪くもないよ。
 そう言いながらエドガーはちょいちょいと手招きして自分が腰を下ろしているソファにオリバーを呼ぶ。
 制服脱いで、ネクタイ取ってと、指示を出しながら消毒液を容赦なく口の切れている部分や瞼の腫れ上がっている部分に吹きかけていくエドガーに、吹きかけられているオリバーは思わず眉を顰める。
 ネクタイを解いていた手が止まったオリバーに「あ、しみた?」なんて心配のしの字もないような口調で聞いてきたエドガーに、何だコイツ、と初対面時に感じた思いが再び湧き上がるが、「ヘーキ」と強がる。
 本当は口の端なんかしゃべるのすら辛いぐらい切れてるし、口の中もズタズタだ。歯が折れなかっただけマシで、左目なんか視界の半分も見えないぐらい瞼で覆われている。打ち身とか擦り傷とか数えきれないほどあって、制服のボタンを外そうとしたら何もなくて笑えてくる始末だ。
 なんか、汚いね。
 エドガーの本当は傷の手当などしたこともないようなやり方に黙って耐えていたオリバーだったが、消毒液を片手にきょとんと固まってそんな言葉を発した相手に吹き出した。
「アンタ、バカだろ」
 普通怪我してたら洗ってから手当すんだろ。しかもこんな泥だらけの奴よくこんな新品のソファに座らせたよな。ホントアンタガキみてえ! とうとう思っていたこと、感じていたことが堪えきれなくなりオリバーがゲラゲラ笑えば、きょとんとしていた大きな緑の目が途端にふにゃっと垂れ下がる。
 あはは、ホントにね! 僕、実はこんなことしたことなくってさ。
 オリバーと一緒になってケタケタと笑い始めたエドガーは、はあ、でも、オリバーは笑ったら凄くいい顔だね、と言って笑いを収めた。まだ苦しそうに腹を押さえてヒーヒー言っているが、先ほどまでの笑いの衝動は収まったようだ。
 大笑いして、切れた口が痛くて、痛え痛えと言いながらもゲラゲラ笑っていたオリバーも、その言葉につられて、笑いの衝動が引っ込む。
 途端、急に気恥ずかしくなって、「は? 何言ってんの? キメェ」と、思ってもいないセリフをエドガーにぶつける。
「あれ? ごめん? 気に障った?」
 エドガーはその言葉をどう受け止めたのか、傷ついた様子でもなくオリバーに嫌悪を持った風でもなく、ただケロッとした表情で言う。
 やっぱりコイツどっかおかしい。そう思ったオリバーだったが、案外神経の太そうな相手に助かった部分もあった。これで、彼を傷つけてしまったりしたくはなかったのだ。傷つけるつもりも、毛頭なかったのだ。ただただ、言葉足らずで言葉知らずで、自分が空回る。それだけのことで、ガキな自分が悪いと分かっていても、この笑顔の絶えない目の前の男に当たってしまう。そして彼もそれを厭うような素振りが無いのが本当に嬉しかった。
「いや、別に。……つか、アンタこそ、えっと、……キメェとか、別に、思ってねえから」
 引き抜いたネクタイが虚しくオリバーの手の中に収まる。誤魔化すようにそれを手で弄びながらオリバーは口籠った。
「気にしてないよ。僕も、何か、変なのは分かってるんだ」
 一瞬しゅんとした雰囲気を漂わせたエドガーだったが、次の瞬間にはパッとあの笑顔で顔を上げた。
「じゃあ、お風呂入ってきて」
 急な話題転換に呆気にとられるオリバーに構うことなくエドガーは、あっち、と先ほど説明していた薄茶色のドアを指差す。
「僕んちバスタブだけなんだけど。シャワーじゃなくてごめんね」
 いや、そんなもんはどっちでもいいと、譫言のように答えてオリバーはソファから腰を上げる。本当に掴めない奴だ、と思いながら。でも、確かに自分でも汚いと思うし、ココで風呂を使わせてもらえるのはありがたかった。
「キレイになったらもう一回ちゃんと手当しよ」
 僕の下着でも入るよね? なんて言いながら未開封のパックを渡されて、オリバーはじゃあと、押し切られるようにバスルームへ向かったのだった。
「ふう……」
 部屋とは違い濃い目の木目で彩られたバスルームに入ると、オリバーは手早く制服を脱ぎ去り、猫足のついたバスタブへその身を沈めた。そして、思わず安堵のような吐息が零れたのだった。
 風呂の湯は温かくて、疲れた体に染み入るようだったが、同時に数えきれないほど負った傷にもしみて、イテテと思わず顔を顰める。
 喧嘩が好きなわけではないけれど、それでも必要ならば受けてしまう。自分から吹っ掛けることはなくとも、この見てくれだ。色々な与太者の多い界隈に住んでいればそれなりに場数も踏んできた。けれど、今夜のは我ながら無謀だったと、漸く冷静になってきた頭で思う。
 自省とも後悔とも諦めとも思えるようなことを考えながら、バスタブの横に備え付けてあるソープ類で手早く身奇麗にし、再び湯に浸かっていると、段々気分が浮上してきて、元が陽気な性格のためか、心なし楽しいような気もしてくる。つい鼻歌まで出てきそうで、慌ててオリバーは風呂から上がった。
 バスタブ脇に置いてある棚から適当にタオルを引っ張りだして勝手に使い、用意されていた下着に足を通したところではたとする。
「ちょ、マジかよ……」
 無駄に可愛らしいハート柄のトランクスに途中から脚が入らないのだ。柄は、まあ、借り物だしココは我慢するとしても、サイズが合わないのは如何ともし難い。コレばかりはどうしようもなくて、ちょっと嫌だなと思ったけれどもう一度自分の下着を穿いて、再びタオルの積んであった棚を見れば、それ以外は何もなくて、脱ぎ捨てた自分の制服が乱雑に置いてあるだけだった。
 そういうこと……?
 何が「そういうこと」なのかは分からないけれど、何となくそう呟いて、下着姿という初対面の他人の家では普通はしないだろう格好で仕方なくバスルームから出る。
「えっと、さあ、下着、合わない」
 何となく決まりが悪くてクシャッと袋の中に詰め直した物を差し出せば、えー、と声が上がった。
 バスルームから出てすぐのところにあるスピーカーの下で何を考えているのか、ダンスなどしていたエドガーは楽しそうで、えー、と言う声とは裏腹に笑顔でこちらを見ている。
「そっかー。まあ、僕より随分体格いいもんね」
 素肌のままのオリバーを見てそう言うと、じゃあ、明日色々買い物しようね、とオリバーが裸も同然の格好なのは気にならないようで、踊りをやめて歩み寄ってくる。
「うーん。汚れが取れたら少しはマシになったね」
 顎に手を当ててさも考え深そうな顔をしたエドガーは、オリバーをしげしげと眺めてそんなことを言う。
「へっ。薄汚くて悪かったな」
 エドガーの一連の態度に先ほどまでのバツの悪さが薄らいできていたオリバーも普段の自分の調子で軽口を叩く。
「悪くないよ。しょうがないよ」
 ニッコリと笑顔でオリバーの嫌味とも言えない嫌味を気づきもせず受け止めたエドガーは、しょうがないしょうがないと繰り返し、再びソファへ歩み寄る。
「こっちこっち」
 先ほどと同じようにやはり話題の転換は急で、エドガーは何事もないかのようにオリバーを手招く。
「へーへー」
 この流れにも何だか既に馴染んできている自分がおかしくて、オリバーも態度の悪い返事をしながらも、案外素直に歩み寄る。
 そして、エドガーの隣に腰を下ろせば、「おお」と楽しそうな声が上がる。
「あはっ。今僕持ち上がった!」
 どうやらオリバーが座ったことで座面が沈んだのが面白かったようで、たったそれだけのことが、エドガーには酷く楽しいことに感じるらしい。
「っせぇな。重てえって言いてえのかよ」
 チッと舌打ち混じりにオリバーが返せば、「違うよ」と笑い混じりにエドガーか答える。
「だって、ふわってこっちが上がって、楽しいだけだよ。あとさ、なんかさ、人がいるなって。一人じゃないんだなって」
 だから、楽しいし、嬉しい。
 そう言って出しっぱなしの薬箱から再び消毒液のボトルを取り上げたエドガーは笑顔のままで、何も言わずオリバーの顔面に消毒液を吹きかけた。
「ちょ、おま、アホか!」
 ブワッと目の前に霧吹き状に消毒液が広がったオリバーは、ああ、またコイツは楽しさを見つけたのか、コレがいつも楽しいと思っていられる感覚なのか、なんて柄にもなく感慨深い気持ちになりかけていたのに、エドガーの素っ頓狂な行動にたちまちその感傷的な気持ちが霧散してしまう。
「マジ、アンタもう、ホント、自分でやるから手ェ出すな」
 疑問符を頭上いっぱいに浮かべているエドガーの手から消毒液のボトルを取り上げて、オリバーは声を上げた。
「マジで、もういいから。アンタはアンタのやりたいことやってて」
 オリバーがコイツマジ疲れる、と言う思いを滲ませてそう言えば、エドガーの方は相変わらず分かっていなさそうな様子で、それでも言葉自体は額面通り受け止めるようで、「うん分かった」と、ニコッとする。
 じゃあ、僕ご飯作るね。
 そう言って立ち上がったエドガーは狭いキッチンに入っていくと、何やら作り始めて、フライパンでバターが溶けていく匂いがする。
 じゅう、とキッチンからの音を背中越しに聞きながら、オリバーは傷の手当を適当に済ませて、特に酷い瞼の傷にガーゼを貼り付けたところで、あ! という声に振り返る。
 あー! と声を上げながらガリガリとフライパンにフライ返しを擦りつけているエドガーを見て、思わず立ち上がる。
「アンタ何してんの」
 大股で歩み寄りその手からフライパンを奪い取れば、どうやらチーズサンドをグリルしようとしていたようで、けれど、それが焦げ付いている。
「だー! アンタこんなのもできねぇのかよ!」
 チーズサンドなんて基本中の基本じゃねえかと言いながら、エドガーがガリガリ擦ったせいで半分剥げかけたパンを器用に裏返す。
「アンタ、料理も初心者……?」
 器用にフライパンを振るオリバーの隣で感動した様子で、お~! なんて声を上げているエドガーを横目で見れば、うん、と嬉しそうな返事がある。
「アンタここで一人暮らししてんじゃねえの?」
 一人で暮らしているのなら自炊しているはずだと思い、オリバーが尋ねれば、エドガーは僅かに照れたような笑顔でオリバーの顔を見る。
「んっとね、ついこの前引っ越してきたばっかりなんだ。両親死んで、今までの家は広すぎるし売り払って引っ越してきたの。だから、一人暮らし初めて」
 一人暮らしって楽しいけど、大変だよね~と締め括ったエドガーは、オリバーは料理上手なんだね! と感心している。
 いやちょっと待て、親死んだ話の方はどうなのよ、そっちの方が重大じゃね? とオリバーは心の中で思うが、当の本人はケロッとしていて、ココで自分が蒸し返すのも野暮な気がする。そもそも、そんなどう考えたって明るくはない話をあえてしたいとも思わないし、人の不幸を根掘り葉掘りする趣味もない。本人がこの様子なのだから、それに合わせているのが無難だろうと結論付ける。
「あー、そう。まあ、そんな感じだよな」
 口端だけで笑えば、うん、そうそう。オリバーは何でこんなに上手なのと、エドガーの方も案外適当な感じで答えてくる。
「俺は、お袋いねえし、親父が使えねえから。自分で一通り何でもしてきただけ」
 極力何でもないことのように平坦に答えて、よっしゃ、とフライパンから出来上がった物を皿に移す。
「へー。偉いね~」
 目は皿を見ながら、エドガーはオリバーを褒める。
「アンタ、スゲェ、正直者だな」
 その様子が餌を待つペットみたいで、おかしくて、オリバーも自分の境遇の話で避けていた暗くなりそうな雰囲気を呼び戻しそうな予感を払拭させることができる。
 お互いの軽く話した内容から察するに、決して二人共辛さを知らない環境ではないことが分かった。ただそれだけで十分だと思う。話したいときに話せばいいし、話したくなければずっと話さないままだっていい。
 多分、オリバーもエドガーもそういう話題には、そういった姿勢なのだろうと思う。
 そう勝手にオリバーは結論付けて、エドガーと一緒にチーズサンドを頬張ったのだった。



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