ストリームレット・シングル-イントロ
オリジナル
ストリームレット・シングル-イントロ
俺の名前はオリバー・ウィルソン。
両親は随分昔に離婚した。お袋が男と逃げたからだ。
そのお陰で俺は必然的に親父と暮らすようになった。
随分自由気ままに育ててもらったから、親父には感謝の気持ちもあるが、けれども、典型的なアル中で、正直このままこのダメ親父と一緒に暮らしていたら自分もダメになると思っていた。
お袋と別れたあとの親父は、女っ気はなかったものの、酒に溺れるようになったし、元々無精者だったせいで、家事の一切は俺が引き受ける羽目になっていて、ある意味自立できることができたのは、アイツのお陰だと思う部分もあるにはある。
けれど、やっぱりこんなに全身に彫り物を入れていても、帰宅時間が毎日バラバラでも、何も言わない、寧ろ気づかない親父にはうんざりしていた。
別にこの歳になって構って欲しいわけじゃないけれど、けれども、やはり日々酒と仕事と時々博打に出かけるだけの親父を見ていると、自分の先行きに不安を抱くのも事実だった。
それがある日爆発した。
飲んだくれて博打で大損して帰ってきた親父が、たまたまやる気になった課題に取り組んでいた俺に理不尽な勢いで絡んできたのだ。
それからは酷いモンだった。
今まで親父も色々あるんだろう、辛いんだろうと、特に何も言わずにやってきた分が、一気に噴き出してしまったのだ。
溜めに溜め込んだ不満も鬱憤も文句も、全部口汚く音に出てしまった。
そこへキレた親父が殴りかかってきたので、応戦したのだ。
勝敗なんて物はなく、もう嫌だこんなウチと、飛び出したのだった。
俺の住んでいる場所はウィロウクリーク。海辺の風光明媚な土地だ。
売りはブルジョワとブルーカラーが上手く混在しているところで、海辺には洒落たバーや美術館に図書館。街のほぼ中心には広大な面積の国立公園がある。
そんな場所で俺は北西の外れ、地図にも載ならないような場所に暮らしていた。街の東側はいわゆる山の手で、あっちには金を唸るほど持った奴らが住んでいる。
俺のような飲んだくれのブルーカラー親父の息子じゃ到底住めない場所だ。
けれど、学校はその辺の奴らも一緒だったりして、まあ、友人としては悪くはない。
そんな場所で細々とやもめ暮らしをしていたけれど、親父と殴り合ったその日、俺は家を飛び出した。
学生服のままで。
行き場所もないし、お袋は少し離れた砂漠の町オアシススプリングスに住んでいるし、正直あんなカサカサの土地に今更住めないし、男と暮らしているんだろうからぶっちゃけそんなトコに転がり込むなんてできない。
この街から出て行くだけの余裕もないし、ただ単純に親父と殴り合った勢いだけで飛び出してきたってトコだ。
それから下町をぶらついて、生傷だらけの顔を通りすがりの連中にからかわれて一戦。
ヤケになって安酒煽って転がっていたら、また質の悪いのに捕まってもう一戦。
酒が仇になってボコボコにされて、漸く街灯のあるような場所まで辿り着いた。
多分まだ下町だけど、景色に穏やかさがあるので南西の方まで来たんだと思う。
もう自分が元々住んでいた場所からは随分遠くに来たような気がした。
それで、建っている家の雰囲気や周辺の景色に少しだけ緊張感が解れてきて、殴られて息が上がっていたところへ酒がさらに追い打ちをかけてきて、正直もう指一本すら動かせないほどグロッキーだった。
もう何時かも分からなくて、どっかの家の隣の空き地なんだか小さい公園なんだか分からないような場所でくたばってた。
まだ街灯があるだけさっきまでいた所より少しはマシだ、なんて思いながら。
とりあえずこのまま寝ちまおうと思って、適当に寝転んで目を閉じた。
それからどれくらい時間が経ったのか分からないけれど、不意に誰かに揺すられた感覚で目が覚めた。
誰だ、こんにゃろう、またボロボロのガキに絡もうってのか、と思いながら目を開ければ、足のつま先で俺を揺すっていた奴が、「生きてた」なんてフザケたセリフで笑っていた。
街灯のせいで逆光になっていて分かり辛いが、声から察するに男だと思った。
死んでたら懐から財布でも抜くつもりだったのかと聞けば、ははは、と随分快活に笑った相手が「そんなことするほど生活に困ってないよ」と、案外子供っぽい口調で答えてきて、一気に拍子抜けした。
「アンタ誰」
それだけ言うと、俺はよっこらせとダルすぎて起きるのも苦痛な体を上半身だけ起こした。
「僕? 僕は、エドガー。エドガー・ウィリアム」
君は? 名乗ったあとの相手にそう訊かれて、うっかり本名を名乗ってしまった。その声や、訊き方や、しゃがみ込んできた仕草に悪意の欠片も見当たらなかったからだった。幼いとさえ思える素直さで、奴は俺のボロボロでボコボコの姿に卑下の目も下品な好奇心も表さず、ただ不思議そうにしていただけだったから。
「オリバー? オリバー。いい名前だね」
覚えやすい。
そう付け加えて再び笑った奴は、僕そこに住んでるの、と言って数ブロック先の方を指差した。
「オリバーはこの辺の子じゃないよね?」
ああ、と頷きながらも、何か釈然としないものを感じる。
子? 子って、言われるとか、は? と思った。
お前の方がガキなんじゃねえの、と思ってロクに見もせずにいた相手を見れば、やはり幼く見えるような髪型だったし、何より自分よりも随分と華奢なのだ。
「アンタこそ、中坊かと思ったぜ」
正直に言えば、再びあははと笑った奴が、うん、よく言われる、と嫌味な風でも悪い気がした風でもなく、あっけらかんと答えてくる。
「僕ね、二十五歳。んーと、君より七つくらい上かな?」
その制服懐かしい! と妙に嬉しげに付け加えた奴に、俺はさらに目を丸くした。
マジかよ、と。
俺も人のことは言えないが、何やら薄い色をした髪色と、その髪型に、絶対ガキだ、と思っていたからだ。
ね、こんなトコに寝てたら風邪ひくよ。それに怪我も酷いし。
そんな風にポカンとしていた俺に、奴は、ご飯もベッドもあるよ、それに怪我の手当も必要でしょ、と屈託のない笑顔で声をかけてくる。
何だ新手の詐欺か何かかと、少し訝しんだけれど、この子供のような男に悪意は感じられず、それよりも少し面白そうな、楽しそうな、おもちゃでも見つけたような顔で、気遣うセリフを並べ立てるのだ。だから俺も少しだけ今まで漲っていた緊張感が抜けていくのを感じた。
「つっても、俺、家飛び出してきたし」
アンタに心配されても、まあ、困るし。朝になりゃ何とかなるし。
そんな風に突っ慳貪に返したのを、垂れた目が不思議そうに見ていた。
「だからさ、僕んトコ来る?」
って意味なんだけど、と再び奴の口元が笑いの形に変わる。
「高校生が制服でこんなトコで転がってたら、今度こそ本当に悪い人に何かされちゃうかもよ」
「いっくらココが自由な街だからって、やっぱりそれはあんまり良くない気がする」
確かに、と思う。
この国は異性婚も同性婚も認められているし、子供だって引き取ったり産んだりの選択も自由だ。黒い皮膚の女の二人暮らしの家に、黄色系の子供がいたり、ザラだ。
男ばっかりで大所帯で暮らしている家もあるし、男女の夫婦にその血を受け継いだ子供のいる家もある。職業だってかなり自由だし、公共の施設などは無料で利用し放題だ。住所不定で公園にウロウロしてる奴なんかも結構いるし、けれど、そいつらを誰も咎めない。区画だけは持っていて、家は持たずにキャンプみたいな暮らしをしている奴らもいれば、持っている区画いっぱいに豪邸を建てて優雅の極みみたいな生活をしている奴らもいる。
まあ、ルールがないわけではないけれど、きっと大凡自由な国柄だ。
けれども、そんな国で、こんな下町でも、警察にでも見つかれば、未成年だし厄介になる。
そう思うと、今の自分の状況は何だかとてつもなくマズイ気がしてくる。
「アンタ、そういう趣味でもあんの?」
到底俺は自分で言うのも何だが、男の趣味としては些か外れている気がする。体格だって良いし、顔は、作りは悪くないはずだが、正直稚児趣味みたいなモンからは外れに外れまくっている。稚児ならば目の前のこのエドガーという奴こそ、そう言った部類だろうと思う。
そんな風に思って、やんわりと聞いてみれば、言っている意味が分からない、と言うような顔をされた。
何? そういう趣味? って何?
本当に分からないと言いたげにきょとんとされて、下世話な勘繰りをした自分の方が恥ずかしくなる。
何だよコイツ! まさか年齢イコール童貞じゃねえだろうな、とも、悔し紛れに思う。
「そういう趣味って何か分からないけど、僕バイオリンとチェスは好き」
エヘッとでも言いたげに笑う奴に、とことん肩透かしを食らった気分になる。
あーそう。随分ブルジョワな趣味だな、と嫌味のつもりで返せば、うん? ブルジョワでもないけどねー。住んでる場所だってストリームレット・シングルだし、と再び奴は笑った。
おいおい。こんな見ず知らずのしかも酒臭い制服姿のボコボコの男にそんなに素直に住処まで馬鹿正直に言っちまっていいのかよと、若干不安になってくる。
ああ。南西のあの辺りってシングルからペア向けの家が多いよな、なんて当たり障りの無いことを答えれば、うん、だから、僕んち割りと空いてるよ、なんて再び無防備な答えが来る。
いやだからさあ、アンタの方こそ警戒心なさすぎなんじゃね、と言いかけて、言葉が途切れる。
「もうさ、ココで喋ってるの飽きちゃった。来る? 来ない?」
もう家に帰りたいし。
今までの愛想の良さはどこへ行ったのか、急に締め括り始めた奴は、俄に立ち上がると、ほら行くよ、と手招きする。
「アンタの方が怪しいぜ」
思わずそう呟いて俺は立ち上がった。
行く場所も無いし、正直ダルいし怪我も痛え。腹も減ってるし、何よりこの子供のような男はいつも、こんな風に俺みたいなのを拾ってきているのかと、気にならなくもなかった。
「怪しくないよー」
あはは、と楽しげにした奴は、僕ねえ、拾い物の趣味はないよー。
まるで俺の心を読んだかのような返事に、聞こえてたのかよ、と返せば、聞こえてないよ。でも、分かる、なんて言い出す。
「だって実際怪しいよね」
僕のやってること。
そして再びあは、と笑う。
よく笑う奴、と思った。
何だかいつも幸せそうだな、と。
ちょっといいなと思う。
こんな風に何の衒いもなく笑う奴、久々に会ったし、何より自分の中に笑いがこみ上げてくる。
いつぶりだろうか。こんな風に何の下心もなく笑える気分になったのは。
あのクソ親父と暮らしていた期間に、こんな風に無性に笑いそうになったのは、いつまでだっただろうか。
「アンタ、楽しそうだな」
うん。凄く楽しい! 毎日幸せだよ、と笑った奴が言葉を繋ぐ。
「だから、君にも、半分あげるね」
幸せをか? ちょっとシニカルな気分になって何を気取ったことを、と笑えば、幸せはあげらんないけど、一緒に楽しくなれそうな感覚? かな? と語尾上がりに返した言葉に、ついていこうか迷った足が、一歩出る。
「へえ。毎日楽しくなれる感覚か」
奴の隣に並んで、自分より下にある顔を覗きこむ。
「うん。毎日楽しいと、自然と幸せになれるでしょ?」
垂れてると思っていた目は、思ったより垂れていなかったことに気づく。
それでも笑うと目尻がやっぱりふにゃんと下がって垂れる。
そうか、コイツ、笑ってばっかだから垂れ目に見えるのか、とまた気づく。
「あー。そうかもな」
楽しくないより楽しい方がいいし、不幸せでいるよりは幸せでいた方がずっといい。じゃあ、と考えれば、楽しくないよりは楽しい方が幸せになれる気はする。確かに。特に面白みもない毎日で、そんで、親父と取り返しのつかない殴り合いまでしたんだから。十分不幸な人生だったはずだ。それはなぜか? 単純に楽しくないからだろうと思った。
学校は行ったり行かなかったりだったし、親父には怒鳴られて、たまに機嫌がいい時は最終的に酒代くれとか言い出す始末で、そんで、まあ、成績悪いし学校からこのままじゃクビだって電話きて。ハッキリ言って毎日別に楽しくも何ともなかったよな、と思い出す。
回想と言うにはまだ時間がそれほど経ってないけど、コイツ、エドガーの話を聞いてると何だか遠い過去みたいな気がしてくる。
「そんじゃ、分けてもらおうかな」
俺のことなど気にもしていない風にスタスタ歩いて行くエドガーの後ろから声をかける。
「早く」
答えになっていない掛け声で止まる素振りもなく歩くエドガーの後ろ姿は、やはり楽しそうだ。
華奢なその後姿に、俺の中にもう既にそこはかとなく楽しい気分が湧いてくるようだった――。
俺の名前はオリバー・ウィルソン。
両親は随分昔に離婚した。お袋が男と逃げたからだ。
そのお陰で俺は必然的に親父と暮らすようになった。
随分自由気ままに育ててもらったから、親父には感謝の気持ちもあるが、けれども、典型的なアル中で、正直このままこのダメ親父と一緒に暮らしていたら自分もダメになると思っていた。
お袋と別れたあとの親父は、女っ気はなかったものの、酒に溺れるようになったし、元々無精者だったせいで、家事の一切は俺が引き受ける羽目になっていて、ある意味自立できることができたのは、アイツのお陰だと思う部分もあるにはある。
けれど、やっぱりこんなに全身に彫り物を入れていても、帰宅時間が毎日バラバラでも、何も言わない、寧ろ気づかない親父にはうんざりしていた。
別にこの歳になって構って欲しいわけじゃないけれど、けれども、やはり日々酒と仕事と時々博打に出かけるだけの親父を見ていると、自分の先行きに不安を抱くのも事実だった。
それがある日爆発した。
飲んだくれて博打で大損して帰ってきた親父が、たまたまやる気になった課題に取り組んでいた俺に理不尽な勢いで絡んできたのだ。
それからは酷いモンだった。
今まで親父も色々あるんだろう、辛いんだろうと、特に何も言わずにやってきた分が、一気に噴き出してしまったのだ。
溜めに溜め込んだ不満も鬱憤も文句も、全部口汚く音に出てしまった。
そこへキレた親父が殴りかかってきたので、応戦したのだ。
勝敗なんて物はなく、もう嫌だこんなウチと、飛び出したのだった。
俺の住んでいる場所はウィロウクリーク。海辺の風光明媚な土地だ。
売りはブルジョワとブルーカラーが上手く混在しているところで、海辺には洒落たバーや美術館に図書館。街のほぼ中心には広大な面積の国立公園がある。
そんな場所で俺は北西の外れ、地図にも載ならないような場所に暮らしていた。街の東側はいわゆる山の手で、あっちには金を唸るほど持った奴らが住んでいる。
俺のような飲んだくれのブルーカラー親父の息子じゃ到底住めない場所だ。
けれど、学校はその辺の奴らも一緒だったりして、まあ、友人としては悪くはない。
そんな場所で細々とやもめ暮らしをしていたけれど、親父と殴り合ったその日、俺は家を飛び出した。
学生服のままで。
行き場所もないし、お袋は少し離れた砂漠の町オアシススプリングスに住んでいるし、正直あんなカサカサの土地に今更住めないし、男と暮らしているんだろうからぶっちゃけそんなトコに転がり込むなんてできない。
この街から出て行くだけの余裕もないし、ただ単純に親父と殴り合った勢いだけで飛び出してきたってトコだ。
それから下町をぶらついて、生傷だらけの顔を通りすがりの連中にからかわれて一戦。
ヤケになって安酒煽って転がっていたら、また質の悪いのに捕まってもう一戦。
酒が仇になってボコボコにされて、漸く街灯のあるような場所まで辿り着いた。
多分まだ下町だけど、景色に穏やかさがあるので南西の方まで来たんだと思う。
もう自分が元々住んでいた場所からは随分遠くに来たような気がした。
それで、建っている家の雰囲気や周辺の景色に少しだけ緊張感が解れてきて、殴られて息が上がっていたところへ酒がさらに追い打ちをかけてきて、正直もう指一本すら動かせないほどグロッキーだった。
もう何時かも分からなくて、どっかの家の隣の空き地なんだか小さい公園なんだか分からないような場所でくたばってた。
まだ街灯があるだけさっきまでいた所より少しはマシだ、なんて思いながら。
とりあえずこのまま寝ちまおうと思って、適当に寝転んで目を閉じた。
それからどれくらい時間が経ったのか分からないけれど、不意に誰かに揺すられた感覚で目が覚めた。
誰だ、こんにゃろう、またボロボロのガキに絡もうってのか、と思いながら目を開ければ、足のつま先で俺を揺すっていた奴が、「生きてた」なんてフザケたセリフで笑っていた。
街灯のせいで逆光になっていて分かり辛いが、声から察するに男だと思った。
死んでたら懐から財布でも抜くつもりだったのかと聞けば、ははは、と随分快活に笑った相手が「そんなことするほど生活に困ってないよ」と、案外子供っぽい口調で答えてきて、一気に拍子抜けした。
「アンタ誰」
それだけ言うと、俺はよっこらせとダルすぎて起きるのも苦痛な体を上半身だけ起こした。
「僕? 僕は、エドガー。エドガー・ウィリアム」
君は? 名乗ったあとの相手にそう訊かれて、うっかり本名を名乗ってしまった。その声や、訊き方や、しゃがみ込んできた仕草に悪意の欠片も見当たらなかったからだった。幼いとさえ思える素直さで、奴は俺のボロボロでボコボコの姿に卑下の目も下品な好奇心も表さず、ただ不思議そうにしていただけだったから。
「オリバー? オリバー。いい名前だね」
覚えやすい。
そう付け加えて再び笑った奴は、僕そこに住んでるの、と言って数ブロック先の方を指差した。
「オリバーはこの辺の子じゃないよね?」
ああ、と頷きながらも、何か釈然としないものを感じる。
子? 子って、言われるとか、は? と思った。
お前の方がガキなんじゃねえの、と思ってロクに見もせずにいた相手を見れば、やはり幼く見えるような髪型だったし、何より自分よりも随分と華奢なのだ。
「アンタこそ、中坊かと思ったぜ」
正直に言えば、再びあははと笑った奴が、うん、よく言われる、と嫌味な風でも悪い気がした風でもなく、あっけらかんと答えてくる。
「僕ね、二十五歳。んーと、君より七つくらい上かな?」
その制服懐かしい! と妙に嬉しげに付け加えた奴に、俺はさらに目を丸くした。
マジかよ、と。
俺も人のことは言えないが、何やら薄い色をした髪色と、その髪型に、絶対ガキだ、と思っていたからだ。
ね、こんなトコに寝てたら風邪ひくよ。それに怪我も酷いし。
そんな風にポカンとしていた俺に、奴は、ご飯もベッドもあるよ、それに怪我の手当も必要でしょ、と屈託のない笑顔で声をかけてくる。
何だ新手の詐欺か何かかと、少し訝しんだけれど、この子供のような男に悪意は感じられず、それよりも少し面白そうな、楽しそうな、おもちゃでも見つけたような顔で、気遣うセリフを並べ立てるのだ。だから俺も少しだけ今まで漲っていた緊張感が抜けていくのを感じた。
「つっても、俺、家飛び出してきたし」
アンタに心配されても、まあ、困るし。朝になりゃ何とかなるし。
そんな風に突っ慳貪に返したのを、垂れた目が不思議そうに見ていた。
「だからさ、僕んトコ来る?」
って意味なんだけど、と再び奴の口元が笑いの形に変わる。
「高校生が制服でこんなトコで転がってたら、今度こそ本当に悪い人に何かされちゃうかもよ」
「いっくらココが自由な街だからって、やっぱりそれはあんまり良くない気がする」
確かに、と思う。
この国は異性婚も同性婚も認められているし、子供だって引き取ったり産んだりの選択も自由だ。黒い皮膚の女の二人暮らしの家に、黄色系の子供がいたり、ザラだ。
男ばっかりで大所帯で暮らしている家もあるし、男女の夫婦にその血を受け継いだ子供のいる家もある。職業だってかなり自由だし、公共の施設などは無料で利用し放題だ。住所不定で公園にウロウロしてる奴なんかも結構いるし、けれど、そいつらを誰も咎めない。区画だけは持っていて、家は持たずにキャンプみたいな暮らしをしている奴らもいれば、持っている区画いっぱいに豪邸を建てて優雅の極みみたいな生活をしている奴らもいる。
まあ、ルールがないわけではないけれど、きっと大凡自由な国柄だ。
けれども、そんな国で、こんな下町でも、警察にでも見つかれば、未成年だし厄介になる。
そう思うと、今の自分の状況は何だかとてつもなくマズイ気がしてくる。
「アンタ、そういう趣味でもあんの?」
到底俺は自分で言うのも何だが、男の趣味としては些か外れている気がする。体格だって良いし、顔は、作りは悪くないはずだが、正直稚児趣味みたいなモンからは外れに外れまくっている。稚児ならば目の前のこのエドガーという奴こそ、そう言った部類だろうと思う。
そんな風に思って、やんわりと聞いてみれば、言っている意味が分からない、と言うような顔をされた。
何? そういう趣味? って何?
本当に分からないと言いたげにきょとんとされて、下世話な勘繰りをした自分の方が恥ずかしくなる。
何だよコイツ! まさか年齢イコール童貞じゃねえだろうな、とも、悔し紛れに思う。
「そういう趣味って何か分からないけど、僕バイオリンとチェスは好き」
エヘッとでも言いたげに笑う奴に、とことん肩透かしを食らった気分になる。
あーそう。随分ブルジョワな趣味だな、と嫌味のつもりで返せば、うん? ブルジョワでもないけどねー。住んでる場所だってストリームレット・シングルだし、と再び奴は笑った。
おいおい。こんな見ず知らずのしかも酒臭い制服姿のボコボコの男にそんなに素直に住処まで馬鹿正直に言っちまっていいのかよと、若干不安になってくる。
ああ。南西のあの辺りってシングルからペア向けの家が多いよな、なんて当たり障りの無いことを答えれば、うん、だから、僕んち割りと空いてるよ、なんて再び無防備な答えが来る。
いやだからさあ、アンタの方こそ警戒心なさすぎなんじゃね、と言いかけて、言葉が途切れる。
「もうさ、ココで喋ってるの飽きちゃった。来る? 来ない?」
もう家に帰りたいし。
今までの愛想の良さはどこへ行ったのか、急に締め括り始めた奴は、俄に立ち上がると、ほら行くよ、と手招きする。
「アンタの方が怪しいぜ」
思わずそう呟いて俺は立ち上がった。
行く場所も無いし、正直ダルいし怪我も痛え。腹も減ってるし、何よりこの子供のような男はいつも、こんな風に俺みたいなのを拾ってきているのかと、気にならなくもなかった。
「怪しくないよー」
あはは、と楽しげにした奴は、僕ねえ、拾い物の趣味はないよー。
まるで俺の心を読んだかのような返事に、聞こえてたのかよ、と返せば、聞こえてないよ。でも、分かる、なんて言い出す。
「だって実際怪しいよね」
僕のやってること。
そして再びあは、と笑う。
よく笑う奴、と思った。
何だかいつも幸せそうだな、と。
ちょっといいなと思う。
こんな風に何の衒いもなく笑う奴、久々に会ったし、何より自分の中に笑いがこみ上げてくる。
いつぶりだろうか。こんな風に何の下心もなく笑える気分になったのは。
あのクソ親父と暮らしていた期間に、こんな風に無性に笑いそうになったのは、いつまでだっただろうか。
「アンタ、楽しそうだな」
うん。凄く楽しい! 毎日幸せだよ、と笑った奴が言葉を繋ぐ。
「だから、君にも、半分あげるね」
幸せをか? ちょっとシニカルな気分になって何を気取ったことを、と笑えば、幸せはあげらんないけど、一緒に楽しくなれそうな感覚? かな? と語尾上がりに返した言葉に、ついていこうか迷った足が、一歩出る。
「へえ。毎日楽しくなれる感覚か」
奴の隣に並んで、自分より下にある顔を覗きこむ。
「うん。毎日楽しいと、自然と幸せになれるでしょ?」
垂れてると思っていた目は、思ったより垂れていなかったことに気づく。
それでも笑うと目尻がやっぱりふにゃんと下がって垂れる。
そうか、コイツ、笑ってばっかだから垂れ目に見えるのか、とまた気づく。
「あー。そうかもな」
楽しくないより楽しい方がいいし、不幸せでいるよりは幸せでいた方がずっといい。じゃあ、と考えれば、楽しくないよりは楽しい方が幸せになれる気はする。確かに。特に面白みもない毎日で、そんで、親父と取り返しのつかない殴り合いまでしたんだから。十分不幸な人生だったはずだ。それはなぜか? 単純に楽しくないからだろうと思った。
学校は行ったり行かなかったりだったし、親父には怒鳴られて、たまに機嫌がいい時は最終的に酒代くれとか言い出す始末で、そんで、まあ、成績悪いし学校からこのままじゃクビだって電話きて。ハッキリ言って毎日別に楽しくも何ともなかったよな、と思い出す。
回想と言うにはまだ時間がそれほど経ってないけど、コイツ、エドガーの話を聞いてると何だか遠い過去みたいな気がしてくる。
「そんじゃ、分けてもらおうかな」
俺のことなど気にもしていない風にスタスタ歩いて行くエドガーの後ろから声をかける。
「早く」
答えになっていない掛け声で止まる素振りもなく歩くエドガーの後ろ姿は、やはり楽しそうだ。
華奢なその後姿に、俺の中にもう既にそこはかとなく楽しい気分が湧いてくるようだった――。
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