5

2014 伊達誕
予感 5



「梵天丸殿のお部屋でごじゃるか」
 暫くして弁丸はうきうきと言った調子で廊下を渡り、梵天丸にしてみれば先程己にしがみつく弁丸を単純に立たせるためだけに差し出した手は、ここへ来ても解かれず、予想外の展開にやや困ったような表情であった。
 渡り廊下の途中で頼みの小十郎は何か八つになる物をと言いながら厨の方へ向かってしまい、佐助も何を思っていたのか「あ、俺様もお手伝いしまーす」などと惚けた台詞と共に小十郎の後を追い、結局ここまで来てしまった。しかも何故だか途中から、あ、しょれがしここ分かり申す! と威勢の良い声を上げて梵天丸の手を弁丸が引いて歩くという、伊達家中では有り得ない前代未聞の珍事を繰り広げられて、通りすがる家臣や侍女たちに微笑ましい光景だと言いたげにされてしまえば、怒鳴り散らす事も出来ないし、かと言って先刻の今で弁丸にきつく当たる事も当然できはしない。
 お陰で意味もなく頬が火照るのを薄物で擦り隠し隠しここまでやって来たのだ。
 ふんふんと童歌なのか何なのか、鼻歌交じりの弁丸は頗るご機嫌で、梵天丸殿のお部屋はあそこでしゅな! と繋いでいない方の手指を差し向けた。
「あー、うん」
 と、梵天丸が素っ気ないにも程がある相槌で返しても、弁丸は気にした様子もなく、もうしゅぐですじょと、幼い発音で随分一端の口振りで梵天丸を案内する。
 これでは最早どちらが家人で客人なのか分からない。
 そんな事を思いながら歩いていれば、もう自室は目の前で。
 先程弁丸をこれでもかと打ち据えた己の部屋へ入るのを、一瞬戸惑う気持ちもあったが、この屋敷で自由に寛げるのはここしか無いのだ。
 そう思えば躊躇の気持ちよりも、早く人目を避けて自由になりたいという欲求の方が勝った。
 先刻の騒動で母に見つかり母屋に連れ出される時、手前上ぴしりと閉めた障子を、再び弁丸はここへ訪った時と同じようにすぱん! と開け放ち、どうじょ、と梵天丸を通した。
「……」
 ここまでされては最早何も言葉などなく、梵天丸は言われるがままに自室に入り、何時も座っている壁際にどっかりと腰を下ろした。
 そうしてまるで自室のようにして案内したくせに、もじもじと敷居の手前で足の爪先を擦り合わせている弁丸に目が行く。
「?」
 何やってんだと不思議に思い目だけを向ければ、「しょれがしも、入ってよかろうか」と彼なりに先程の大人たちから頂いた説教が効いたと見えて、遠慮らしきものを表した。
 その態度に梵天丸はふっと皮肉げに笑って、今更何言ってんだと、犬の子でも呼ぶようにちょいちょいと手招いてやれば、ぴかっと輝くような顔で嬉しげに弁丸はとことこと歩み寄ってくる。
「犬みてェ」
 その様子を率直に梵天丸が口にして笑えば、弁丸は何を思ったか、しょれがしも犬だいしゅきでごじゃると、再び梵天丸を笑わせる。
 面倒臭い相手だと思ったが、この子どもは中々に梵天丸を楽しませる。そう思えば、最初の無礼も何だか本当に許せてしまいそうで、更に言えば、先程の自分の謝辞も弁丸のこの素直さの前では建前だけの言葉のようにすら感じる。
 ぽつんと梵天丸の前に立っている弁丸に、こっちへ来いと更に促して、己の真正面に呼びつけた梵天丸は、さっきは悪かったな。Sorry. と彼にしてみれば前代未聞の同一人物に二度も謝ると言う奇跡のような事をしたのだった。
 既にもう弁丸にとっては過去の出来事のようで、ふえ? と間抜けな返事をしてこてんと首を傾げるのを見て、梵天丸は微笑ましくなってしまう。
 ――父の言う通り過ぎて。
 本当に弁丸は年端もいかぬ子どもで、凡そ道理など言っても無駄だし通じもしない。そんな相手にあんなに苛烈に振る舞ってしまった己に自己嫌悪すら覚えて――。
「弁丸」
 呼びつければ素直にはいと返事をするこの子どもに、竺丸や時宗丸には感じない親密さを得る。弟もあの生意気な従兄弟も、どちらも可愛いし好きだ。身内として親愛の情が溢れそうな程に。それでも、この年端もいかぬ真っ直ぐな子どもには、そうではない“愛しさ”を感じるのだ。
 弟のようでそうではない。
 叱られればすっぱりと潔く謝れる清廉さと、今の今まで一度として梵天丸の見た目の歪さを気にした風もないところ。本当ならば聞きたくて聞きたくてしょうがないだろうと思うのに。そして握る手の温かさ、柔らかさ、己を連れ歩いた時に感じた存外な力強さ。
 口を開けば些か優秀とは言い難いが、その言の葉には裏も表もなく、率直で純真で朴訥としていて。全てが梵天丸にとっては初めてで珍しかった。
 全て、この小さな子どもが、今日、植えつけた感覚だった。
 そこまで考えて、梵天丸は些か乱れた弁丸の衣装に気付いて、きゅっと直してやった。自分が物思いに耽って考えに囚われている間、この姦しい子どもはじっと動きもせずただ只管に梵天丸だけを見つめてそこに立っていた。微笑みすら浮かべて。
「ありがとうございましゅる」
 手慰みに、自分の思考を誤魔化すようにしてただ目についた弁丸のぽこんと出た子どもらしい腹の辺りの、その乱れを直してやっただけなのに――。
 こうして律儀に礼を述べるのは、あの父を見て分かるように、愛されて育ったのだろうと、今更ながらに思う。一瞥して己より年下の子どもだと、持ち物も着ている物も己よりも随分粗末で、更に名乗らせてみれば家格も下のしかも次男坊。ただそれだけでこの子どもを判断して、相手にする価値もないと見下し、あれ程好意も顕に己に懐いたものを無碍にした。
 どんな人間でも考えなくとも分かる程手酷く打ちのめし、大声で泣き喚くのを、慰めるどころか煩いと感じたのだ。己は。
 どれだけ自分は性根が捻じ曲がっているのかと、梵天丸は情けないような悲しいような気持ちになる。
 そして、やはり、こんな気持ちを己に芽生えさせたこの小さな子どもに、慈しみたいような、息苦しいような、不思議な気持ちになるのだ。
「弁」
 本当に犬の子のように短く呼んでも、弁丸は寸分違わずはいと返事した。再び梵天丸が黙考の時を迎えても、黙って梵天丸の考えるのを邪魔せずに、大人しくそこに立っていて、こうして呼べば間違いなく己だけを見据えて返事を寄越す。
 そんな弁丸が殊更可愛く思えてくる。己は何て現金なのだと思うけれど、それでも弁丸が可愛くなってしまう。
「弁丸」
 もう一度その気持ちで呼べば、自分でも驚く程その声は穏やかで、薄気味悪くすらある。
 しかし、その声音の変化に喜びを表したのは他でもない呼ばれた本人だった。
 弁丸がふにゃんと嬉しげに笑うと、大きな茶色い瞳がとろんとして、まるでべっこう飴のようだと梵天丸は思った。
「梵天丸殿」
 名前を闇雲に呼ぶだけの己に、弁丸も同じくきっと意味もなくその幼い声に乗せたのだろう。そして、ぽやぽやと笑顔を零しながら、再びもじもじとしだす。
「何だ、厠か」
 自分をこんな気持ちにさせておいても、まだまだ幼いその仕草に、梵天丸は笑った。この右目が使い物にならなくなってから、初めて、皮肉でも嘲笑でも自虐でも卑下でもなく。ただ、純粋に。こんな風に笑ったのなんて、いつ以来だろうかと、本人ですら思い出せない。
 そうして、その笑顔に弁丸が寸分の狂いもなく喜色満面の反応を返す。
「やはり、梵天丸殿は笑った方がようごじゃる」
 にこやかにそう告げる弁丸は、甚だ年下とは思えない程の言葉で梵天丸の暗く淀んだ心の奥底の誰にも見せた事もなければ、自分ですら触れた事もない場所を擽ってくる。
 先刻の梵天丸が動揺し、弁丸に酷い仕打ちをしたのだって、言えば、この幼子とは思えぬ言葉の数々が原因でもあるのだ。
 けれども、今となってはさもありなんと梵天丸は思う。
 こんな風に思いもしていなかった言葉を、心のままに目の前で紡がれては、固く閉じ籠もった心を無遠慮に優しく撫で上げられているようで……。
 幼い口調と言葉が、それを気付かせるのを遅らせたけれど。
 そうして、自分は馬鹿かと思うのに、弁丸に言われた言葉は、簡単に梵天丸の頬に血の色を上らせるのだ。
「にゃはは。梵天丸殿はそのまま笑っていたら、うんとずっとかわいらしゅうごじゃる」
「ほっぺも、まっかで」
 ぷに、と何の裏心もないその無垢な言葉と共に、丸い指先が梵天丸の頬を突付く。
「ふわふわ、つるつるでごじゃる」
 楽しげに梵天丸の頬を指先で味わった弁丸は、再びもじもじとしだした。
「ほら、我慢すんなって。厠だろ」
 弁丸にされる事が、言葉が、面映ゆくて仕方がなくて。
 梵天丸は再び素っ気なく言葉を発した。
 それに対して弁丸はきゅっと、あの、後十年もしたら凛とした風情になりそうな眉を顰めて、違いましゅる! と僅かに語気を強めて反論した。
 ぷくっとただでさえ丸い頬が真ん丸に膨れて、梵天丸は笑わずにはいられなかった。
「Cuteな顔しやがってこの野郎」
 先程の仕返しとばかりに、その膨れた頬を指で突付いてやれば、ぷっと尖った弁丸の唇から息が漏れて、鞠が萎むように弁丸の頬も元に戻る。
 それを見て再び梵天丸は笑う。こんなに笑うのは何時ぶりだろうと、考えることすら面倒臭くなる程、笑った。
「じゃあ、何なんだよ」
 笑いながら梵天丸が弁丸に問いかければ――。
 無言で両腕を梵天丸に差し出したのは弁丸だった。
「?」
 訳が分からず梵天丸が首を傾げれば、弁丸はむっと口を尖らせて、やや上目遣いで梵天丸を見据えた。
「分かんねェよ。何だよ」
 今までの弁丸にしては、随分とやさぐれた雰囲気のその態度に、梵天丸は少し姿勢を正して聞き直した。
 すると。
「…………抱っこ」
 極々小さな声で、甘えた言葉がころりと弁丸の口から転がり出た。
 その言葉に思わずぶふっと吹き出しそうになった梵天丸だが、これは、この幼いなりに男としての矜持はしっかりと持ち合わせていそうな弁丸を傷つけるかと判断して、吹き出してしまったのはおまけだとでも言いたげに、残りの笑いは引っ込めて。
「しゃーねェなァ。……ほら」
 お竺にだってこの歳になってからは抱っこなぞした事ねェぞと思いながらも、梵天丸は弁丸の突き出した両腕を自分へ向けて引っ張ったのだった――。

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