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『野良猫に原チャリを占拠されちゃった』

二十一



 いつこの姿が消えてしまうのか、分からぬのだ。
 漠然と、だが、確実に迫っているのだ。
 彼が、猫の姿に戻る時は。
 幸村は、俺も連れて行ってくれ、と思う。
 彼が人の姿でいられぬのなら、俺を、俺が。
 俺を猫の姿にしてくれと、願うのだ。
 彼が猫となり、自分が人のままでも、暮らしては、いけるだろう。
 けれど、同じ目線でものを見て、同じ言葉で話し合い、同じ感覚で風を、空を、匂いを感じる事は無理なのだ。
 寝床を提供して、食事を与え、撫でてやり、時々彼に、にゃおん、と鳴いてもらい、そして、匂いをつけてもらう。
 これだけでも、きっと何も知らず、何もなかった頃よりは、幸せなのだろう。
 けれど、俺は、そんな事がしたい訳ではないのだ。
 彼を、今更、猫のように、飼い猫のように、扱う事などできないのだ。
 それ程に、愛しく思っているのだ。
 同じものを見て、同じ言葉で語らい、同じ食事をしたいのだ。
 同じ部屋で寝て、起きて、共に遊び、出かけ、そしてまた眠る。
 それは、人と野良猫ではできないではないか。
 だからこそ、彼が猫に戻ると言うならば、俺が。
 俺が、猫になってしまいたい。
 そして、過酷なる野良猫の世界で生きてきた彼を、守り、寄り添い、同じものを食べ、同じ匂いを嗅ぎ、同じところで眠るのだ。
 やはり、俺は、彼を、諦めきれぬ――。

 政宗殿は、と言いかけて言葉を切った幸村に、政宗はん? と幸村の顔を覗き込む。
 いや、何でもござらん、と俯く幸村に、アンタも元気になるといいのにな、と言って、政宗は日頃幸村が自分にそうするように、背中を撫で上げた。
 よしよしとするように、政宗は自分の体で覚えた感覚を、幸村に再現してみせる。
 姿は猫に戻ると言うのに、その気持ちは、感情は、仕草は、益々もって人らしくなる政宗に、幸村は鼻の奥がつんとしてくる。
 こんなに優しいこの人を、俺は、困らせようとしている。
 幸村は自分が今ぶつけようとしていた思いを振り返り、恥じ入るような、泣きたいような気持ちになる。

 どうして、聞けようか。
 政宗殿を人にしてくれた神社を教えてくれ、などと。
 聞いて、自分もどうするのか。
 人が人の神社へ行き、猫になりたいと願って、水垢離をするのか。
 有り得ない。そんな馬鹿な話は。
 聞けば、政宗だって困るだろう。
 政宗を手放したくなくて、幸村は葛藤と逡巡の中に落ちていく。

 暫く黙って俯いていた幸村を撫でていた政宗だったが、徐に立ち上がると、にゃァ、俺、腹減った、と言い始め、あと、しっぽが、きゅうくつにゃんだけど、と言って、ズボンを脱ごうとする。
 またか、と思い、ご飯は作るから、それまでは尻尾はしまっていて下され、と幸村は慌ててそれを止める。
 自分には尻尾などないから分からないが、尻尾が生えているのだとしたら、ズボンなどはいていたら、窮屈かもしれないな、と思い、何か良い策を立てねば、と考えて、一先ず向こうへ参りましょう、と幸村は政宗を連れ立った。

 俺これすき、と言いながら政宗は幸村の作った簡単な食事を食べる。政宗の味覚に合わせて幸村の作るものは薄味になっていったのだ。
 その嬉しい言葉に、それはようござったと、幸村ははにかむ。
 未だスプーンを握り締め、ぼろぼろと零すのは直らないが、政宗は食事の前にはいただきますと、食べ終わればごちそうさまと言えるようになった。
 最初の頃は、猫缶を開けてあげれば、いきなりそこに顔を突っ込み、直接食べたのに比べればかなりの進歩だ。
 そんな政宗の姿を見ながら幸村は食後のお茶を啜る。
 うう、おなかいっぱい、と言いながら政宗は幸村の鼻血やら涙やらを吸い込んで気持ち悪い色合いに変化したタオルケットにごろん、と横になる。
 食べたら、寝る。寝たら、遊ぶ。遊んだら、食べる。そして、また寝る。彼の生活リズムはほぼこの三つでできており、そこに幸村がいようがいまいが、基本的には関係ないのだ。
 だが、一緒に暮らすようになり、幸村が色々な事を教え、願い、諭し、そして政宗も、そんな幸村に懐き、信頼し、自分のもの、と言う認識をして、お互いに意思疎通が成り立ち、数々の出来事が生まれるのだ。
 幸村の誠心誠意と、それに応えた政宗によって、二人は、二人で暮らしている、と言う事を成り立たせていた。

 ごろごろとタオルケットに顔を擦り付けながら、うにゃうにゃと何事か呟いていた政宗が、なァ、しっぽ、出したい、と言い始めて、ああ、そうであった、と幸村も思い出す。
 いかんせん尻尾が気になる様子の政宗を思い遣り、幸村が、尻尾はどのような感じなのですか、と聞けば、ううん、きゅうくつ、と政宗は答え、のばしたい、と言うのだ。
 だから、これ、ぬぎたい、とも。
 それは困る、と幸村は慌てて代案を考える。
 しかしこれといった解決策も浮かばず、結局ズボンに穴を開ける事を提案して、己の数少ない洋服を一着駄目にしたのだ。
 幸村がはさみを持ってくると、政宗はこわい、と言って耳を伏せてしまったが、絶対に傷つけませんから、と宥めすかして、何とかズボンに小さな穴を開ける。下着にもはさみを通して、ちょきん、しゃきん、と布地を切る音が終わると、ぽっかりと穴の開いたところに、黒々としたつやつやと輝く尻尾が、ゆらりと垂れ下がった。
 穴を開ける間、耳を伏せタオルケットに顔を埋めるようにして耐えていた政宗に、もう終わりましたぞ、と声をかければ、尻尾が、ゆらと揺らめいて、ぷらんぷらん、と動き、何とも可愛らしい様子になる。
 刃物を使うと言う事に神経を集中していた幸村は、作業している間は意識していなかったものの、作業が終わり何事もなかったと安堵した瞬間、政宗の姿勢に急に恥ずかしくなる。
 うつ伏せになり、顔をタオルケットに埋め、きゅ、と尻を持ち上げた姿は、何とも扇情的で、そこから覗く尻尾も、ゆらゆらと揺らめき、耳は伏せられ、ぎゅう、と一つ目を瞑って耐えるような表情が、さらに幸村によくない事をしてしまった、ような、気にさせる。
 俺は、どこまで、浅ましいのか、と呆れ返るも、恐怖に震える政宗を前にそんな考えもすぐに霧散し、もう起きても大丈夫ですよ、と声をかけ、切り落とした布切れを拾い上げて捨てに行く。
 その言葉に顔を上げた政宗は、ぱたぱた、と尻尾を動かし、Oh! と嬉しそうに笑う。
 これなら、しっぽ、動くし、きゅうくつじゃねぇな、と八重歯を覗かせ、thank you. と幸村に言ってきたのだ。
 彼が、ありがとう、と言ったのはこれで、二度目。
 初めて彼が幸村の元に訪れた日に聞いて以来だった。
 幸村は政宗を抱き締めたくなったが、ぐ、と我慢して、大した事ではござらん、と静かに笑うのだった。

 こうして、人としての部分を獲得し、益々可愛く、愛しくなっていくというのに。
 この人はもうすぐ猫に戻ってしまうというのか。
 気付けば、政宗には耳が生え、言葉もあやふやになり、尻尾まで生えて――。
 猫にどんどん近付いていくというのに、この人の心は、気持ちは、どんどん人に近付くようではないか。
 何と皮肉な話か。
 何と皮肉な運命か。
 この相反する器と魂の持ち主を。
 俺は、愛さずに、いられない。
 政宗殿、今日は、沢山、お話しましょう(あなたの声を、覚えておきたいのだ)――。


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