DEAR FEELING

おそ松さん
ノリと勢いで書いています。
一松くんが恋患いで中二病です。多分。
※歌モチーフです。苦手な方はそっ閉じして下さい。


以下どうでもいい言い訳。
好きなバンドが15年ぶりに復活したのが嬉しすぎてやらかしちゃいました。
この曲が好きで好きで堪らない。
そして大変一カラっぽい。
一カラって言うか一松くんっぽい。
勝手に脳内変換して、勝手にやらかしてるヤツです。
本文中に歌詞の内容を引用している箇所があるので、納得いかないor嫌悪感を持たれる方は速攻で逃げて下さい!
閲覧は自己責任でお願いします。
ダラダラと本文が増えていく可能性があります。

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DEAR FEELING



 いつからだったか。もう随分と昔のような気もするし、つい最近のような気もする。こんなに朧気な記憶だが、めでたいことにさらに薄らぼんやりしている。それは日々の怠惰な生活のお陰であり、そのことに後悔はしていない。
 日々のらりくらりと食って寝るを繰り返す生活は、一見ストレスフリーに見えて、案外そうでもない。
 現に今なお、ストレスを感じているのだから。どうせならこっちに生まれてきたかったと思うほど、好きで好きで堪らない愛しい存在に手元の猫じゃらしを振り振り、膝に乗ってくれば頭など撫でてみたり。そんなことをして過ごしていても、ストレスは溜まるのだ。
 目の前には日々変わらぬ自分と同じ顔をした兄弟が今日もひしめき合っている。大して広くもない居間に、同じ顔が自分を含めて六つ。上から数えて四番目の彼は、この喧騒の中にあって、ただ一人黙としていた。
 多分きっとかなり大切な記憶が薄らぼんやりするぐらいには、怠惰な生活を送っていると自信満々で答えられるが、それは何も自分だけではなく、長男から末弟まで揃いも揃って全員がそのような生活を営んでいるのだから始末に終えない。中でも一番のクズは自分だと自負しているが、このボンクラ集団をどう言えばいいか。あっさりと、気取った言い方を取り払えば、いわゆるニートというものだった。このご時世にニートなんて、実は俺たち勝ち組じゃね? と、思わなくもないが、けれども何分世間体が悪いのは否めない。だがしかし、我が家はこれで案外平穏無事に日々恙無く暮らせているのだから、平和な日本に産んでくれて育ててくれた両親には感謝してもしたりないとは、心の奥底で思っている。齢は二十歳を過ぎたが、この歳になるまで、そんなことは一言も言ったことはないし、今後も言う予定はない。己の性格的にそんな言葉は死んでも言えないと思うし、言うのはそのうち首を吊るときにでも、遺言に一筆。そのぐらいには思っている。下手をすればそのまま墓場まで持っていくかもしれないけれど。
 けれど、墓場まで持っていくものは、もうあるしなあ、とぼんやり思う。
 目の前できゃっきゃうふふとでも表現するのがしっくり来るような勢いでじゃれ合っている下の弟達は、片やちょっと何を考えているのか分からないし、片やドライモンスターなどと自分のすぐ上の兄に喩えられたぐらいには、色々と個性的ではあるけれど、それでも、自分などよりは十分に素直で、きっと日々の感謝程度であれば両親に言葉にすることもあるだろうと思う。
 末弟を辛辣に表現したそのすぐ上の兄も、色々と口喧しい上に突っ込み気質で時々勘弁してくれと思うぐらい、自分とは真逆なほど口がよく回るのだけれど、多分彼も根が素直だと思うので、まあ、照れ隠しついでに勢いで言いそうでは、ある。
 長兄はいざというときは大変頼りになる上に、何補正だか分からないけれど色々チートな存在なので、当然両親に感謝する程度のことは、照れも恥ずかしさもなく、堂々と言ってのけると思われる。と言うか、先日長兄が小遣いをねだるついでに「母さん俺たち育ててくれてありがとね」なんて、軽々しく口にしていたのを聞いたばかりだった。
 そして、そんな言葉をそれこそ長兄以上に何の衒いもなくあっけらかんと、寧ろ軽率に言うのが、上から二番目の兄だった。兄と認めたくない程兄らしからぬ存在――それは四男である自分が勝手に思っている――で、やはり末弟にまで時折辛辣な言葉を投げかけられたり、色々と兄弟の中では不憫な扱いを受けているのだけれど、けれど、彼は、自分は兄だからと言う自負とともに、――認めるのは大変癪だが――生来の優しさだけで言えば、六人の中でトップだと思う。そしてまた、それを惜しげも無く人にくれてやるような、よく言えば大らかな、自分からすれば大変間抜けな、性格だった。だから、彼は多分、ニートで、稼ぎもなくて、日がな一日プラプラしているだけの六人の中で、多分、最も、親孝行だと思われるのだ。母親からの頼まれごとや、家事の手伝いや、弟達の面倒も。多分アレが一番見ているだろうし、聞いている。ただそれは、お人好しのバーゲンセール状態なアレが、半分利用されているということにすら気がつかないほどの、大間抜けだからだと、四男は思っている。
 だから、きっと、既に朧気な記憶にすらなりつつあるのだ。
 などと、つらつらと物思いが長考になり、猫じゃらしを持つ左手も、顎や体を撫でていた右手も止まって、煮干しの袋は空っぽで。
 そんな彼に愛想を尽かしたらしい愛しい存在の、膝の上から心地の良い重みとあたたかさが消えて、暫く経ってから、漸く気がついたように顔を上げたのは、六人の中で最も口下手で素直じゃなくて、喜びも嬉しさも感謝も、そう言った良い感情は全て心の奥底に大事に大事にしまってしまうタイプの、四男だった。
「一松兄さん、猫帰っちゃったよ」
 相変わらずボケっとしてて薄暗いね~と、末弟の悪い癖が出て、チッと舌打ち一つ。
「お前、いっつも一言多い」
 常に目が座っていて、いつか何か大それたことをやらかしそうだと言われる半目で睨めば、「あーヤダヤダ。おっかな~い」と半笑いで逃げられた。
 末の弟は大抵こんな調子なので、気にもしない。
 一々人のことなど気にしていたら、面倒臭いのだ。自分のような自己否認型の人間には。毒づいて、気を張って、悪態を撒き散らし、威嚇する。それは、全部、裏を返せば常に人のことが気になるということで。だから、お陰でこんなに大勢の兄弟に囲まれて、気取る必要もないし、今更何かを取り繕う必要もないのだけれど、だけど、それでも、自分のように卑屈な人間にとっては、誰よりも何よりもどこよりも安心できる家で、兄弟で、家族でも、決してストレスフリーになることはないのだ。
 だから、いつも『面倒臭い』。
 末弟の些細な嫌味も、長兄の「一番心配」の言葉も。すぐ上の兄の「ハロワ行け」も。割合と仲良しな(筈)の、五男のハチャメチャな遊びのお誘いも。
 全部、本当は、嬉しい。
 こんな僕のことでも、気にかけてくれて嬉しい。ありがとう。素直になれなくてごめん。
 父さんも母さんも本当は好きだよ。こんなロクデナシになっちゃってごめん。育ててくれてありがとう。
 だけど、それが口に上ることはなくて、睨むか、溜め息か、舌打ちか。それから、本当は違うのに、と自己嫌悪。だから、――面倒臭い。
「面倒臭え」
 その一言はまるで魔法のように、都合がいい。
 何もかもを丸投げできる上に、相手に諦めを生じさせる。
 本当は、そんな厄介な自分が、自分こそが、『面倒臭え』なのだけれど。否定的で卑屈で、自分でも嫌になる。だから、そんな自分が面倒臭い存在だろうと思うし、そう思うことでなおさら自己否定になる。こんな面倒臭い奴相手にしたくないだろうな、と。
 長兄あたりは、何か思うような顔をすることもあるけれど、それでも、舌打ち一つ、ひと睨み、あるいは「面倒臭え」のどれかで、大概の兄弟は呆れ半分にでも、諦めてくれる。けれども、唯一、そこを踏み抜いてくるのが、次兄だった。
 気がついているのか気がついていないのか、凡そ気がついていないと思われるけれど、最早一松にとっては地雷設置兼地雷踏み抜き要員と化していた。
 ここまで間抜けだと、開いた口も塞がらない反面、つい、カッとなってしまう。他の兄弟にはしないような暴言、暴力が、意識的にも無意識的にも出てしまう。どうして、そんなに、自分を困らせるのか。何か意図してやっているのではと、疑いたくなるほど、彼は、自分との距離感を掴めないのだ。
 けれど、それは、と思って一松は鏡を熱心に覗き込んでいる件の次兄をちらりと見遣った。
 黙っていれば、多分、本当に、先程思ったように、もしかしたら六人の中で一番マトモかもしれないぐらいに、性格だけは良いのだ。けれど、一度口を開いてしまうと、凡そ大抵の人には理解不能な次兄用語で喋るので、手に負えない。普段、彼はどちらかと言えば無口な方なのに、何かあると、必ず必要以上に方向違いの格好つけをして、痛々しい仕草とともに、さらに痛々しい言葉をボロボロ零すのだ。それがまた、冗談やノリでならば、もしかしたら堪えることもできたかもしれないけれど、本人に至ってはそのようなつもりはなく、どうやら全て本心のようで、そこが非常に質が悪い。
 そして、質の悪さで言えば、彼は本当に素直で優しくて間抜けなので、次兄と自分を除いた四人が、自分の様子を伺いながら言葉を選んでくれているときでも、次兄の器用なほど不器用な言葉は止まることを知らないのだ。その純粋で優しさの溢れる言葉が、どれほど自分を傷つけているかなど、一ミリも気がつかないように。その真っ直ぐに自分に向けられる混じり気のない視線が、言葉が、優しさが、いつも、いつだって、この卑屈で捻た性格の、クズでゴミに、傷を負わせているのか。クズでゴミだから傷つかいないとでも思っているのかもしれないけれど、けれど、でも。
 気取らずに喋るときでも、気取って喋っているときでも、次兄の言葉には裏も表もなく、多分、心情的には同じなのだと思う。あの間抜けな優しさを、言葉に乗せて、時には表情に乗せて、抉るように真っ直ぐに自分に向けるそれを、それが――。
 どれだけ自分にとって、怖いか。苛立たしいか。痛いか。苦しいか。――嬉しいか。あたたかいか。切ないか。救われるか。
 こんなに、縋り付きたくなるほど、愛しいか――!
 いつのことだか、本当に薄らぼんやりしていて、あやふやだけれど。
 次兄の言葉に、気持ちに、態度に、本当は、随分昔から救われてきたのだ。他の兄弟が遠巻きにしても、この次兄だけは地雷原を恐れずに馬鹿の一つ覚えのように真っ直ぐに踏み込んで来る。いや、来てくれる。こちらが、罵倒しようが睨みつけようが脅そうが。酷ければ、殴ったって蹴ったって。
 長兄を筆頭に兄弟たちから『遅れてきた上に長引いている反抗期』などと不名誉な烙印を押されていても、それは自分の中ではしょうがないと面倒臭いで割り切れた。
 けれど、そんな自分を、逃げもせず丸ごと受け止めようとしてくれる上に、まるで、向かってくるようにして、自分に接してくるのだ。
 次兄を、カラ松、と名前で呼ばなくなり、兄さんとも呼ばなくなり、クソ松と頭ごなしに怒鳴りつけるような自分相手に。
 そんな憐れなほど率直なカラ松に、兄弟以上の親愛を抱いたのは、いつだったか。
 毎日毎日好きなだけ寝て、座れば出てくる飯を食い、にゃあと鳴く友だちの溜まり場に遊びに行き、また飯食って寝る。そんな生活の中で、その記憶は本当に朧で、参ってしまう。
 いつ、この時、あの日、これが、と言った決定的な切っ掛けがないのだから。
 いつの間にか、気がついたら、それこそ、日々酸素を吸って吐くように。目が覚めて何となく兄弟同士で「おはよう」と挨拶するような、気安さで。
 ――だからこそ、質が悪い。参ってしまうのだ。
 カラ松のことを軽率などと表現したが、最も軽率なのは、自分自身であった。
 朧気どころか、記憶が不確かなのだから。そんなことでいいのかと、自分に突っ込みを入れたくもなるが、如何せん相手は同じ屋根の下に自分と同じ年齢分、いやもう、何なら母親の胎内から、既に一緒にいたのだから。
 その相手に、何がどうしていつどこでこうで、なんてものはないのだ。イラッっとするし、カチンとくるし、カッとなるけれど、けれど、それもこれも、気がついたら次兄をアホほど好きになっていたからで、もうどっちが先か分からないのだ。気がつけば好きだったし、今のような態度でいた。態度が悪くなったのが先か、好き過ぎて態度が悪くなってしまったのか。鶏が先か卵が先かみたいな話だ。
 チート長兄や無駄に察しの良い末弟あたりには「拗らせてるね~」などと笑われるが、自分でも拗らせているのは重々承知で、けれど、こんな風に暴力的になったのは、じゃあ、どっちが先? と自問自答しても、答えなど見つからないのだ。
 カラ松のあの痛々しい性格は、思春期を過ぎた辺りから形成されてきて、けれど、根っこの部分は変わらなくて、病的な優しさを病的な兄貴風とともに、病的な態度で提供してくるのだ。
 それに寧ろ混乱したのは一松の方で、けれど、そのカラ松からの病的な兄弟愛に絆されたのも事実で、一松は中三か高一ごろ、一年ほど泣き暮らしたことがあった。勿論それはにゃあと鳴く馴染みの友人たちのいる路地裏で、一人そっとだったけれど。
 カラ松を思えばハッキリ言って下半身に有り得ないほど熱が溜まるのに、顔を見てあの痛い言動をされるとイラッとする。
 好きなのに嫌い。
 嫌いなのに好き。
 こんな二律背反あるだろうか。
 本当にふざけているとしか思えないけれど、どちらも一松にとっては、真実だった。
 やがてそれも、遅ればせながらの反抗期によって増量された生来の『面倒臭え』気質が飲み込んで、今や自分でも呆れ返るほど手のつけようがないくらいに、カラ松をいじめ倒すようになったのだ。
 泣いて泣いて、泣き疲れて、半目の瞼が腫れ上がって、冷やすのも億劫になった頃、相変わらず心の底から心配ですといった風情で、「どうした、一松」「何かあったのか?」「俺で良ければ相談にのるぞ」と何度も何度も言い寄られて、終いにキレて殴り飛ばしたのが、カラ松に手をあげるようになった切っ掛けだった。気がする。意訳すればああいうことだろうと、思うけれど、もっとその言い方はあからさまに中二病的で、痛々しくて、一松の変化に半分気づき、半分面白そうに「ほっとけ」と言った他の兄弟たちの態度よりも一松を苛つかせ、喜ばせ、何とも言えない気分にさせたのだ。
 どうせなら周りの兄弟と同じようにほっといてくれれば、こんな風に重症末期にまで、拗らせることもなかったのに、と宛先迷子の八つ当たりじみたものまで感じる。
 カラ松のせいで、と言った感情ばかりが上塗りされるのだ。
 カラ松のせいで僕がおかしくなった。カラ松のせいで僕が知りたくもなかった恋を知った。カラ松のせいで僕は暴力的になった。カラ松のせいで僕は余計に家族以外の他人と関わりたくなくなった。カラ松のせいでますます僕は卑屈になる。カラ松のせいで、カラ松がいるから、カラ松がいれば。
 カラ松のせいで救われている。カラ松がいたから人を好きになることを知った。カラ松がいれば他人なんてどうでもいい。
 カラ松が、カラ松の、カラ松を、カラ松に、カラ松、カラ松、カラ松。
 一体何年同じことを考えているのか。
 鏡を覗き込む相手は、自分とは真逆な真っ直ぐな性格を表すような、まあるい瞳に、濃くつり上がった眉に、一日の半分くらいは笑みの形の口元を、熱心に眺めている。
 対して一松は薄い眉に、死んだ魚のようだと、自他ともに認めるダルそうな半目。まるっきり常に物事を穿った視線で捉えがちな自分の性格を如実に表すようで、多少嫌気も差すが、今更治しようもない。そして大抵ムスッと引き結んだ口元。
 お互いに似ているところといえば鼻と、……二人とも本当は素顔でいられない、というところだった。
 片や痛々しくも大仰な素振りで兄弟愛の大安売りの構いたがりで、そうすることで、兄弟から愛情を得ようとし、人と目を合わせる勇気がないのか、人からの視線が気になるのか、常にサングラスをかけては強がって。片や常にやる気の無さを全面に押し出して、何かあれば半ギレ当然で、結局一人は寂しいのか構って欲しがりで、顔の半分をマスクで覆い隠し、不用意な表情の変化を見せぬようにか、はたまたやはり人の視線に慄きを感じるのか。
 真逆だ真逆だと思っているし、思いたいけれど、その実表れ方が別軸なだけで、本質的には変わらないのではと、思うほど似ているのだ。
 埒もないと、そこまで思って一松は再び三角座りの膝を抱えた腕に己の顎を乗せた。
 いつだってこうして居間の隅っこで兄弟たちを眺めるのが日課だった。下らないと思うし、何やってんだかとも思うし、当然イラッとしたり、煩いと思ったりもする。けれど、やはり、六人の中にいるということが、一松にとっては幸せなことだった。日々の兄弟たちのやり取りをバカにしつつもその喧騒を、ダラけ具合を見ているのが、嬉しかった。僕は一人じゃない、と思えるのだ。
 些細だけれど、この上ない幸福感。ただし、過負荷だけれど。



 一松は自分で思ったことにマスクの下で僅かに口元を歪めた。ヒヒッと喉の奥で自分にしか聞こえない程度に笑う。
 やっぱり僕には兄弟がいてくれればいいや、なんて殊勝なことを極僅かに思っていれば、不意に卓袱台を挟んで向こう側にいたカラ松と目が合う。
「楽しそうだな」
 自分では格好いいと思っているのか、元々つり気味の眉をさらにつり上げて、口元はきゅっと片側だけ上げる独特の表情で、言われる。
「……」
 気障ったらしい顔しやがってと思いつつも、一松は無言でやり過ごした。近頃はさすがに色々とカラ松に生傷が絶えなくて、雀の涙よりも少ないけれど、反省的なものも思ったのだ。
 だから、多少の苛つきでは、即、手出しはしないように、努力していた。
 それを、何を勘違いしたのか、それとも元々忘れっぽい性格が災いしたのか功を奏したのか、カラ松は「一松が優しくなった!」と、先週あたり嬉しいのが高じ過ぎて、僅かに涙ぐんでいた。
 一松にしてみれば、そんなことはないのだけれど、何せ相手が相手なので、まあいいかと、その時は放置したのだ。
 それ以来カラ松から、普段以上に構われるし、妙に懐かれている感がある。
 無視のつもりの放置が祟ったのか、日頃の行いのせいなのか、それを言えば六人全員だろうがと、一松は声を大にしたいけれど、けれども、カラ松に限って言えば、やはり、一番酷い扱いをしていたのは、自分自身であると、認める部分も大いにあって、まあ、そんなこんなで、最近のカラ松にはちょっと手を焼いている、と言うのが本音のところだった。
 にゃはっと、無視したにも関わらず、一松が普段のような罵詈雑言もなければ、突然掴みかかるでもなく、舌打ちの一つも無いことに気を良くした風にカラ松が笑いかける。
 本当に嬉しかったり、楽しかったりすると、カラ松はあの気障ったらしい本人曰くの「イカす」作り笑いではなくなるのだ。それがまた、兄弟一凛々しい眉毛の持ち主なのに、垂れ目気味なのがさらに垂れて、その凛々しい眉もふにゃんと下がってそれはそれは本当に成人か? と一瞬疑いたくなるような笑顔をするのだから、一松にしてみればふざけんなコンチクショー! である。
 掴みかかれば涙ぐみ、殴れば涙は落ちて、嬉しくても泣く。笑えば一瞬弟じゃないかと思うほど幼い感じになるし、ふわふわぽやぽやと、カラ松Girlだか何だか分からないがそんなものを求めて彷徨うのは、本当に危なっかしいと思うのだ。大体無駄に自信過剰なのが恐ろしい。確かにカラ松の腕っ節には一松も認めるものはあるけれど、生来気の優しいカラ松は、我欲では暴力沙汰は起こさない。もっと若いころ、やんちゃしていた時代でも、兄弟のピンチにしか、その腕力は発揮されたことはなく、ハッキリ言って現在のカラ松はその当時よりもさらに丸くなっていて、余計に不安になる。
 自信過剰だからこそ、不安なのだ。お前は自分で思っているほど頼り甲斐はないぞ、と。
 自分よりも随分と小柄な昔馴染みに簡単に攫われたり、兄弟たちに痛い痛いと自分の言動をバカにされても気づきもしない。挙げ句それを笑って許してしまうのだから、本当に頼りない。無駄に優しいからそれを怒ることもない。
 思い返して、再び一松はマスクの中に溜め息を吐いた。
「どうして、こんな奴、……」
 思い返して考えた事実たちは、それだけで考えたらちょっと自分の気持ちに不安を覚えるようなことばかりだけれど、けれどその本質は、カラ松の生来の優しさから来ていて、なお言えば、その性格で愚直なまでに真っ直ぐ、真摯に一松に向かってくる、その姿勢が、態度が、言葉が、気がつけば一松を恋という大きな落とし穴に落としていたのだから、この思い返した内容は、謂わば、ただの、心配なのだ。惚れた相手に対する心配。もっと言えば、庇護欲。頼れる兄貴になりたがりのくせに、その実五男や六男と同じぐらいに不安定な、思い人。
 最も自分とは縁遠いと思っていた感情に、この間抜けな次男によって叩き落とされ、最初は怒りと、驚きと、居た堪れなさと、申し訳なさと、自己嫌悪と、とにかく負の感情で大混乱したけれど、嵐も過ぎれば晴れ渡るように、三年も経った頃には一松の中で、落ち着きが出ていた。
 どうせどうにもならないモンなんだし、このまま墓場まで持っていけばいいや、と。そう思ってかれこれ現在まで四年近く経っている。合計すればゆうに七年はこの状態でいるわけで、自分でも随分辛抱強いなあ、と自画自賛する。
 何度も何度も考えたし、勘違いではないかと自問自答を繰り返した結果、寧ろ気がついた当初よりも深みに嵌っていて、愕然としたものだ。けれど、それならしょうがないと、生来の『面倒臭え』が大活躍したのだった。
 まあ、ぶっちゃけて言えば、好きなのだ。縦にしても横にしても裏返してもひっくり返しても、どこからどう見て、どの角度で見ても。まさかまさかと思い続けても、好きなモンはしょうがない、ということだ。
 それでも、好きだけど、いや寧ろ好きだからこそ、あらゆることに頭にくるのも、事実だけれど。
 無言で視線を逸らした一松に、未だふにゃっと笑いかけたままのカラ松が、お気に入りの手鏡をパタンと卓袱台の上に伏せた。
 今なら大丈夫だとでも思ったのか、そわそわとした雰囲気で、一松を伺うような視線を寄越すが、当の一松は逸らした視線をそのまま窓の方へ向けていて、ぼんやりと長閑な雲行きなど眺めていた。
 あんまり僕を刺激しないでよね、なんて思いながら。
 その時には、居間の喧騒も既に消えていて、相変わらずニートのくせにアクティブだなあ、と一松は思う。
 この家のニートたちは、一松以外揃いも揃って大変アクティブなのだ。金もないのに、とにかく家から出ることは好きだった。
 かく言う一松も、にゃあと鳴く友人たちに会いに、一日に一度は必ず外出するので、まあ、一番引きこもりではあるだろうが、ある意味規則正しくアクティブな引きこもりなのではないだろうか。
 朝から感じていたストレスに、多少なりとも憂鬱な気分でいたが、いつになく今日は心が穏やかになるのが早くて、一松は再び窓の外に向かってキヒッと喉で笑った。



 ――本当は心が揺れて仕方がない。
 もしも自分の心を偶像化、映像化、視覚化、できるのならば、今自分の心には羽が生えていて、それは自分のど真ん中に居座っていて、常にふわふわと揺れ動いている感じ。
 軽い羽なので、朝の喧騒にも、日々のダラけた生活にも、一定のストレスは感じる。
 毎日毎日をただ生きながらえるだけでも、それでも、不器用な自分には難しくて仕方がない。ただでさえそんななのに、今はもう、数年前から草津の湯でも治らないとかいう不治の病に患ってる。
 モラルもクソもない自分だけれど、それでも、借り物みたいなモラルの欠片ぐらいはあったりなかったりするので、やっぱり自分にはちょっと生き難いなあ、とか思ったりもする。
 カラ松とどうにかなりたいとか、ヒッジョーに、超! 超! 超! 思うけど、まあ、正直無理だろうし、そんな勇気もないし、ああ、これが僕もカラ松も僕の大好きな猫だったらもっと気が楽なのに、とか、現実逃避みたいなことも思う。
「一松はデリケートだからなあ」
 そう言って笑ったのは、カラ松だったか。
 そうさせてるのはお前だっつーの! って、素直に言えればね。そう思いながらアイツの頬を一回殴ったんだっけ。
「うっせぇ!」
 って、スゲェ凄みながら。
 まあ、それもこれも全部僕の心の羽が感じる愛しい感触。
 考え至ったことに、おえ、中二っぽい! と怖気が走る。
 うは。クソ松みてぇだな、なんて思う。
 だってね、多分カラ松を好きになってなかったら、こんな気持ちにすらならなくて、こんな感情すら持たなくて、もっともっと殺伐とした生き方してたと思うし、こんな詩的な感慨深さも抱かなかったと思うんだ、と一松は誰にともなく言い訳めいたものを心の中で呟いた。
 強いて言うなら、ワクワクした様子だったカラ松が、視界のずっと隅の方に映ったから。
 ――せめてお前だけは傍にいてくれないか。
 こんな汚い感情をお前に向けててごめんね。
 でも、嘘じゃないから。
 軽くかかる日々のストレスと、自分の捻れた性格のせいで生き難い毎日と、それから、蟻ん子の涙ほどのモラルとか、ルールとか、色々と。飼い猫のしている首輪とか、犬のリードとか。あんなのが目に見えない形で僕にはついていて、仮初の『松野一松』を作っているんだ。これがあって、やっと、ほんの少し、人間らしく生きられるように。
 人間て、不便だなあ、なんて。
 獣が進化して、代わりに手に入れたものって。ルールとかモラルとか、お金とか、仕事とか、パチンコとか、アイドルとか、スマホとか、野球とか。オスとか、メスとか。
 友だちみたいな牙もなければ、鋭い爪もなくて、早くも走れなくて。猫ならさ、オス同士だって結構あるのにね。
 人間、だもんなあ。
 まあ、無い、か。
 クフッと変な笑い声が出て、一松は諦めにも似たような気持ちになる。
 けど、けどさ。
 自分は結構色んなものに見切りをつけて生きてきたつもりだったのに、湧き上がる「けど」「でも」に、一松自身が戸惑う。
 やっぱりさ、諦められないモンも、それなりにあるわけですよ。こんなゴミクズでも。
「ねえねえ」
 ――無え無え。
 くるりと振り返り、背後で一松の様子を伺っているカラ松に声をかける。
「ん?」
 おい、でもなく、クソ松、でもなくて、「ねえねえ」なんて、ちょっと甘えられてるみたいで、カラ松は純粋に嬉しくなる。
 その気持ちのままに、ニカッと笑って、カラ松は一松へと視線を投げた。
「ねえねえ」
 ――無え無え。
 同じようにカラ松をねえねえと呼びながら一松の右手の人差し指がマスクに伸びる。そして、慣れた仕草でマスクを下ろすと、特徴的な歯並びを見せながら再びヒヒッと笑い声を漏らすのだった。


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